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村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」134-日本産業革命の地・横須賀造船所―

小栗忠順伝 勇猛な先祖 1

 祖母方の小栗姓を継いだ3代目小栗吉忠は、天文九年(1540)七月五日、16歳の時三河上野の戦で敵と槍合わせをして、比類なき戦ぶり、とおほめをこうむる。廣忠の死後は家康に仕え、永禄元年(1558)今川義元の尾張大高城を織田信長勢が囲んで城中に食料が欠乏したとき、城中へ兵糧米を運び込むについて、吉忠は鳥居四郎左衛門尉、内藤正成らとともに家康の軍勢が信長軍をさえぎり織田勢をよく抑えて戦功があった。

 永禄五年(1562)十月三河一向宗門徒の一揆に際し、家康の家臣にも門徒側に与(くみ)するものが多い中、吉忠一族は心を合わせて筒針の城をよく守った。乱平定の後吉忠の倅(せがれ)忠政が招かれ、「一向宗側につく家臣も多かった中、小栗一族は心を合わせ結束して戦った功績は大きい」とおほめにあずかった。永禄十二年(1569)、掛川の城を攻めた時、六将の一人として先鋒をつとめる。天正十二年(一五八四)小牧の陣において軍功甚だしく、抜群の功の証として家康が着ていた具足と羽織を賜った。天正十八年(1590)秀吉の小田原攻めのとき、家康は関東へ向かうために駿府の留守居役に吉忠をおき、秀吉の接待役を申しつけた。吉忠は太閤秀吉の到着前から病気となったので、同心の伊奈熊蔵を道中の接待役として派遣して、その接待ぶりが太閤にたいへん喜ばれた。

 いよいよ家康が江戸へ移るに際して、吉忠は六十余歳の老体で病気もあることゆえ、駿府城の留守居役はおぼつかないから、せがれ忠政が家康のお供をお断りして留守居の補助をしようと親子で相談したが、勇猛な倅忠政のお供を喜んでいる家康公が承諾しないだろう、ということで吉忠が「忠政の勇気は片意地で関東へのお供など心配です」と家康に申し上げたところ、家康は心配するなと仰せになって手ずから金の采配を賜った。

 東善寺位牌で吉忠は天正八年(1580)九月十六日、六十四歳で没。三河宮崎の心法寺 *(家康の命で江戸四谷に移転。遣米使節副使村垣淡路守範正の墓もある)に葬る。

本紙2704号(2025年11月27日付)掲載





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