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村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」132-日本産業革命の地・横須賀造船所―

小栗忠順伝 桓武平氏小栗から清和源氏小栗に 1

 小栗家初代・松平太郎左衛門信吉  常陸の小栗満重・助重父子は応永三十年
(1423)五月、自ら出陣した足利持氏の子成氏に攻められ八月二日ついに常陸
の小栗氏は滅ぼされたわけだが、満重・助重父子はともに逃れ三河の小栗貞重
を頼った。永享三年(1431)に満重は三河で没した(「小栗氏祖先考」/一説に満
重は途中で自害したともいう)。

 そのあと助重は京都で出家して宗丹(宗湛とも)・自牧と号し、足利将軍に
仕えて、山水画に秀で宋人の趣がある画風で、当代一人者雪舟と並び称せら
れるほどの絵の腕を発揮したという。永享年中に剃髪して相国寺、のちに大徳
寺に入り、周文に就いて絵を学び室町幕府御用絵師となって高野山別格本山金
剛三昧院の襖絵などを描いている。寛正五年(1464)正月68歳で歿(「小栗氏祖先
考」)。狩野元信はその門人である。

 助重は伝説「小栗判官照手姫」のモデルとも言われているから、すべて史実
としたら常陸の小栗一族は滅ぼされたとはいえ、本源の助重は多彩な人生を送
ったことになる。

 さてこの敗れた満重・助重が頼った三河の小栗氏が、助重よりも四代前にな
る小栗氏重の三男重弘が三河に采地を得て三河国筒針(岡崎市)に定着したこ
とは前号で書いた通り。

 「小栗家由緒書上(かきあげ)」に「重弘三河と称す」(「協和町史」)とあるところを見ると、重弘の時から三河の采地に住み、筒針に拠点を持って一帯に勢力を張っていたことがうかがえる。

 「三河」と称した重弘から六代後の小栗正重の妹が、北東に少し離れた岩津城の松平太郎左衛門信吉に嫁いだ。岩津城は徳川家の遠祖松平泰親が応永二十八年(1428)に松平郷から三河へ進出した際、岩津に城を築いたもの。小栗上野介家はその松平泰親から五代目の松平信吉を小栗家初代としている。桓武天王第4子の葛原親王―高見王―から続く桓武平氏系のはずの小栗氏が、三河では源氏系の松平太郎左衛門信吉を初代とした経緯は次号で述べる。

本紙2698号(2025年9月27日付)掲載





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