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文明堂カフェにて

 「この前……、五年ぶりかなぁ。逢っちゃってさ。元カレに。でもね、もうなんていうか、違うわけ。別れてからお互い未練があったから、どちらが誘うともなくホテルまで行ったの。それなのに、解っちゃったのよ……。抱き合ってる時、ときめきがなかった。彼にも私にも。肌を重ね合わせた安心感はあったんだけど。不思議よね」

 そう言って微笑む彼女は、私の元ホステス仲間で既婚者だ。
「それは、醒めたってこと?」
「醒めたって言うより、目が覚めたって感じかな。別に嫌いになった訳じゃないもの。限られた時間の中で彼と色々話したのよ。彼はずっと会社経営が忙しかったし、身内の不幸や遺産相続のいざこざもあってすごく大変な時期を過ごしていたみたい。私は私で、結婚して子育てしているし。環境の変化と共に考え方も少しずつ変化して、お互い人間が変わっちゃたのよね。もちろん、根本的には変わらないのよ。でも、時間の流れって残酷よね。あの頃の楽しかった思い出で終わらせちゃえば良かったわ。思い出は美化されるって言うしさ、余計そう思っちゃうのかも」
「がっかりしたの?」
「……どうかな。彼と再会した夜、家で考えていたの。家族みんな寝静まって、しぃんとしたリビングで。そしたら無性に怖くなったわ。盛り上がり過ぎたら、どうなっていただろうって。平凡な今の生活、壊さないようにしなきゃいけないわよね。やっぱり、私の一番は子ども達だし」
「へぇ……」

 彼女の話を聞いて、人間なんだなぁと、ある意味感心してしまった。彼女の夫とは義務感や居心地の良さで一緒に居るが、正直生ぬるいのだろう。だから、自分の時間が持てるようになると、女としての青春を思い出したくなった。大好きだった元彼に心躍るようなときめきを期待するも叶わなかった。刺激が欲しかったけれど、彼にハマらなかったので今の家庭に収まっているのが正しかったと自分に言い聞かせたのである。しかし……、もし彼女がその逢瀬で熱い感情を抱いてしまっていたら? 確かに、恐ろしい事態に行き着いたかもしれない。つくづく、人間の真の幸せとは何処にあるのだろうと考えさせられてしまった。彼女の癖のあるクスクスとした笑い方が、私の鼓膜と視界を揺すった。そう言えば、一度会った事のある彼女の娘も彼女と全く同じ笑い方をする。せっかく美味しいカステラを食べに来たのに、私は手が付けられないでいた。ただただ、彼女を眺めているだけだった。





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