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阪村氏のねじと人生

1本のねじ

 万延元年(1860)、小栗上野介が西洋文明の原動力は「精密なねじを量産する能力である」と考え、一本のねじを持ち帰った。

 三百年間眠らせていたねじを、徳川幕府はその末期にこの譜代旗本によって目を覚まさせている。

 フランスの支援により、横須賀造船所を建設し、5年後には、オランダ製3トンスチームハンマー(平成9年まで稼動)にて大径ボルトを成形しているが、建設に時間がかかり過ぎた。

 現在の経営でもそうであるが、成功しているものはスピードである。新幹線、航空機、自動車、携帯電話、コンビニ、クロネコヤマトすべてスピードが制している。

 その点、関西地方では世界のあらゆる銃が輸入されて即使用できた。電管式銃、前装式ライフル(ミニェー銃)、後装式連発ライフル銃である。火縄銃は電管式に改造し雄ネジが小さいものには、その間に銅の薄板をかまして使用する等、高杉奇兵隊は幕府より近代装備で戦った。勝てば官軍である。スピードがすべてを制するのは、古今を通じて変わらない。

 徳川幕府は、鉄砲は永代使用が原則で使い捨てができない。修理を重ねて使用するため、一定期間使用された鉄砲は、銃膣を太く作り直し、尾栓ネジも作り直され、いわばオーバーホールして再使用され続けていた。小栗上野介が登場する幕末に至るまで、一丁の鉄砲も輸入されていない。基本的には、種子島でコピーしたままで、なんらの改良進歩もなされていない。

 鉄砲は武士階級以外では所有を禁止していた。一部の農民は、稲を鳥獣の害から守るため、幕府の所有銃を“拝借鉄砲”として貸与される状態で散在していた程度のものである。そのため、徳川幕府の江戸時代は日本が「無ねじ社会」であった。

 すぐれた効用をもつネジの構造原理から、銃身の尾栓にネジがどうしても入用だということで認識もし、また苦労して開発もしている。しかし、銃の引き金など機関部は鋲(ビョウ)やクサビが用いられている。鉄砲に続いて伝来した時計も、日本化され“和時計”として完成するが、これもクサビを多用して組立てられており、特殊なネジがわずかに見られるだけである。

 江戸の工業製品にネジの使用例はなく、まさに徳川幕府の江戸時代とは「ねじの無い文化」の時代である。理由は、結局ねじ製作のための、優れた工作機械や工具に恵まれず、ねじを作るという事が「大変困難な仕事である」ということがその因と、村松貞次郎先生が「無ねじ文化史」という論文で述べている。

 ヨーロッパではどうであったか―

 まず、建物等の出入り口はドアーであるため、開閉に蝶番が用いられるが、蝶番の取り付けはに釘ではドアーの開け閉めを繰り返すと緩んでしまう。このため、どうしてもネジが入用である。似たような事情は外にもたくさんあった。

 必要は発明の母で、1760年にワイアット兄弟が「鉄製ねじを効率的に作る方法」で特許をとり、1771年、貧しい家に生まれたヘンリー・モズレーは天才的な発明家で、サカムラナットフォーマーと同じ、シンプルな「ねじ切り旋盤」を1797年に完成し、ポーツマスに44台設置して、英国海軍の受注をこなしている。

 ねじの需要に対し「阪村機械」という優秀なねじ機械メーカーがなかったため、小栗上野介が一本のねじを持ち帰り「無ねじ文化」に終止符を打ったのである。

本紙2003年10月27日付(1912号)掲載。


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