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阪村氏のねじと人生

煙草包丁

 “鉄砲を無からつくる無鉄砲”火薬がなければタダの鉄棒、と笑われたが、包丁には約千年にのぼる鍛造の技術蓄積がある。

 石上(いそのかみ)神宮には、国宝として七支刀(ななつさやのたち)が神庫に収蔵されている。372年に、朝鮮の百済王肖古王より贈られたものと「神功皇后摂政記」に記されているが、鉄は中国、朝鮮より堺の港に集まり、独創的な方法で刃物の鍛造技術として蓄積されていった。

 「折れず、曲らず、よく切れる」と相反する要件が刃物には求められる。曲らないものは折れやすいものだが、それを折れなくするわけで、現在のフォーマーの工具でもその辺りを苦労して解決している。鉄の“折り返し鍛造”である。10キログラムから1キログラムになるまで鍛造し、その過程で不純物をすべて叩き出す。

 宮本武蔵が言う「朝錬夕鍛」で、人も鉄も強靭になる原理は同じで、休みなく鍛えることである。

 煙草包丁は、砂鉄を低温処理して得られた純度の極めて高い玉鋼(たまはがね)を主材料とし、その上に心鉄(しんがね)を挟み何回も折り返しながら鍛錬してゆくのである。

 その過程で、材料の九割以上が叩き出され、鋼の直髄だけが残る。

 煙草包丁の強靭さはこのように、炭素量が少ない柔かい鉄を炭素量の多い鉄で包み、パイのように何重もの層にした複合鍛造で出来ている。

 サカムラでは、インコネイルで鋼を包んだ“スパークプラグ中心電極”のフォーマーを独占販売しているが、今回、鋼の太径ボルトをチタン合金で包んだ熱処理、めっき不要の亜熱間フォーマーを開発している。原点は堺の包丁鍛造技術にある。堺の包丁には二つの流れがあり、煙草包丁は寛永3年(1626)幕府の命により石割作左衛門ほか4名が開発したとある。

 「タバコ」はポルトガル語であり、堺では莨(たばこ)、田葉粉(たばこ)と書いた通り、茄子(ナス)科の植物で、楕円形の大きな葉を乾燥加工し、煙草包丁で細かく刻む。 

 いずれにしても、ポルトガルとの唯一の港町としてタバコの独占は、堺煙草包丁の発展を促し、鉄砲鍛冶が包丁鍛冶に転向し競争も激しくなった。

 享保15年(1730)31社で堺包丁仲間が結成され、包丁には「堺極」の印が入れられた。しかし、仲間内の階層分化が進み、包丁製作技術も明治新政府の成立により、高知あるいは関などの地方へと流出した。

 土木工事の鍬から刀、そして鉄砲、煙草包丁と生き延びた鍛造技術は、いまでも堺刃物「匠の文化」として生き残っている。隆榎並刃物製作所では玉鋼(チタンと同価格で高値)を武生特殊鋼㈱より仕入れ、坂本鉄鋼所製の40トン三号型バネハンマーで叩いて見せてくれる。

 土間に穴を掘り、その中に入って火床を叩き台と同じ目線において、750度C前後で微細化していく結晶粒を追っていった。

 日本刀の正宗にしても、煙草包丁にしても、熱間鍛造が冷却水を用いずに飴の如く、鋼が変形してゆくドライフォージングである。

 0・01秒のコンタクトタイムで圧造すれば、熱簡鍛造でも熱の伝わりようが無く、水でも工具が焼きつかない。

 「温故知新」により、ドライフォージングのサカムラ亜熱間フォーマーが誕生した。

本紙2003年10月7日付(1910号)掲載。


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