現在位置: HOME > コラム > 阪村氏のねじと人生 > 記事


阪村氏のねじと人生

鉄砲と包丁

 “ものの始まり、なんでも堺”と、地元で自負しているように、堺が歴史的に果たしてきた役割は大きい。また、堺の町が一躍ヨーロッパに知れわたったのは、何といっても南蛮船の渡来だ。

 当時、ポルトガルやスペイン人は南からやって来るので“南蛮人”と呼び、その渡来(船)を“南蛮船”と称した。

 南蛮船はビロード、ラシャ等の織物、生糸、染料、皮革製品、香料等をもたらし、日本からは美術工芸品あるいは銀、鉄等をたくさん輸出していた。それだけ良質な鉄鋼が、出雲の砂鉄を原料として堺で造られていた。

 堺の鉄づくりは、まる一日かけ粘土の炉を作り、薪を燃やして乾燥し、その火種の上に木炭を入れ、風を送って砂鉄を入れる。三十分ごとに砂鉄と木炭を代わるがわる炉の中に入れるのである。

 燃える木炭から発生した一酸化炭素が砂鉄を還元して鉧(けら・字の通り鉄の母)が出来上がる。一回の操業に砂鉄10トン、木炭12トンを用い、四日かかって2トンの鉧をつくり、それを砕いて玉鋼(たまはがね・明治になって鉄砲の玉に使われたため、玉鋼と呼ぶ)を作る。玉鋼は昭和20年(1947)までは潜水艦のベアリングに、ファイバーフローが無い鋼として用いられた。

 ともあれ、800キロの鉄が22トンもの原料から出来上がるのである。労働が激しく、不眠不休の大変な生産のため、できた鉄はとても大切にされヨーロッパに輸出されていた。1615年3月6日付のパタニ商館宛送り状に「鉄一千斤」と記されており(一斤は600グラム)、パンデンでは「包丁九万九千五百丁」と「鉄9トン余」「釘19トン余」等の「船荷送り状」が残されている。

 年間98トンの鉄が堺より輸出されていた。日立金属の協力にて、この介在物を分析したところ二酸化ケイ素と酸化鉄の化合物(ファイヤライト)だった。これが熱間での折り返し鍛造にて各層間の鍛着に一役買い、複層鉄鋼となり強くなる。

 この介在物は「たたら」の炉壁に使われる粘土に由来するもので、そのため正宗、村正のような名刀家は自ら炉を立ち上げてから(炉作り)、刀を打ったといわれている。パリパリとすぐ破れる洋紙と、破れにくい和紙を考えてもらえればそれなりのイメージがつかめると思う。

 一口に「ものづくり」と言うが、大変なことである。この堺の鉄砲も、徳川幕府の開府(1603年)と共に戦国時代に終止符が打たれたことにより、戦争のための新兵器としての使命が終わった。槍や刀でさえも長さが制限され、本当の意味での「武士の魂」となった。

 大阪夏の陣も終わって(1615年)元和の時代と呼ばれた世情安定期、為政者の立場としては、堺の鉄砲鍛冶は邪魔者となった。そのために考えた案として、鉄砲の技術の原点である熱間鍛造を活用して、幕府お墨付きの「煙草包丁」を鍛造する事とした。タバコは「田葉粉」と書き、葉を細かく刻む包丁が必要となる。

 そのため、鍛冶屋は仕事にありついたが、ネジは見捨てられた。故に、徳川三百年の間眠ったままで、堺銃の一端を担ったネジは活用されないまま明治を迎えた。

本紙2003年9月27日付(1909号)。


バックナンバー

購読のご案内

取材依頼・プレスリリース

注目のニュース
最新の産業ニュース
写真ニュース

最新の写真30件を表示する