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阪村氏のねじと人生

火薬と種子島

 ネジにたずさわっている者として「鉄砲といえばネジ」と、ネジしか頭にないが、火薬がなければ鉄砲もただの鉄のパイプとなり何の役にも立たない。

 このパイプに火薬を詰めネジで尾栓をしっかり締めてこそ、ドカンと発射が出来るのである。火薬は、硝石と硫黄・木炭を調合して出来る。種子島時尭は日本の硫黄を寧波に輸出し、中国で産出する硝石を輸入して火薬を中継する基地に種子島をもって行くことを考えた。

 当時の種子島は、琉球や九州南部だけでなく、堺や紀州方面との交易圏も形成し、鍋・釜などの鉄器等の輸出をしていた。そのため根来衆や堺の商人が訪れては、次の季節風が吹き出す迄の半年間をポルトガル人と一緒に、宿坊で滞在した。その折に「軍事秘密」である鉄砲の作り方、火薬の製法から射撃の仕方まで、根来衆によく伝授した。

 島主の時尭は「南に偏在した小島で、こんな新兵器を一人占めしても何んの役にも立たない」と、それより古くから鍛造技術をもっている堺で鉄砲を量産すれば世は戦国時代である、鉄砲と共に消耗品である火薬が大量に売れる―と考えた。

 現代に投写してみれば、難しいフォーマーを色々考えて苦労して作り、金型を設計し、人を教育し、熱処理、めっき・・・と苦労してネジを生産するより、安く作らせ自社ブランドで広く売ってゆく方がはるかに儲かる。中国は脅威ではなく、安く仕入れられる協力工場と考えればよい―と、当時の島主・時尭も世の中の巨大な動きを見てとり、自分のおかれている立場と力量に対比して経営を図った。現在でも通用する立派な経営者であった。

 この大切な「火薬の製法」は、篠河小四郎という若者に研究させている。元亀元年(1570)6月の“姉川の合戦”に秀吉は鉄砲火薬(焔硝)二十斥の調達を大至急に堺で行い、浅井を滅ぼして長浜城主になっている。堺は、この好景気により約十万丁の鉄砲とネジを生産し、フランク王国を抜く軍事大国となっていた。
 
 世はまさに大航海時代である。スペインは征服した島に「フィリピン」と、フィリップス国王の名前を付け、マニラでは中国への出兵計画が煮詰まりつつあった。平戸の松浦隆信や、小西行長らのキリシタン大名は、マニラ総督府に対し「明に対して兵を送る」とひそかに申し出ていた事実の手紙が残されている。

 また、当時のスペインは、民征服のために日本との同盟を求め、司祭ペドロの書簡にも書かれている。重装備を施したスペインの無敵艦隊と結びたかったが、博多滞在中の秀吉の前に現れたのは、その威力を誇示するだけであった。激怒した秀吉は、この事件の後キリシタン禁止令を出している。

 スペインと日本が同盟して明を攻めるという案が破綻した以上、また、外洋船が手に入らなくなった秀吉は独軍で陸路、朝鮮を経由して明に行くことにした。いわゆる現在でいう朝鮮攻略である。

 「歴史に学ぶ」で示した村松氏の考えによれば、明がスペインによって支配されれば、蒙古が高句麗と組んで日本を攻めた「元寇」以上の脅威になる。同盟が不可能なら、近い将来明がスペインに攻略される前に独力で明を攻めて日本の支配下に置き―あたかも昭和期の満州国や朝鮮経営に近い感覚での―「アジア戦略を構築したい」とする唐突な秀吉の決断が、朝鮮出兵の動機であったといわれている。

 これについては信じがたいが、スペインにとっての中国征服はアステカ帝国やインカ王国と同様に容易だとの提言が、東アジアに滞在していた宣教師達から繰り返し本国に送られている。

 実は秀吉もこの情報により、明征服は堺がつくった十万丁の鉄砲とネジをもって攻めれば簡単だ―と考えていた。

本紙2003年9月7日付(1907号)掲載


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