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阪村氏のねじと人生

ナットフォーマーのサカムラ

 日本は縄文時代(2千年前まで)原始人が、北(朝鮮、中国)からきた弥生人に滅ぼされ、渡来人による文明が九州、関西より始っている。

 そのため、死ぬと現在でも故郷に帰れる様にと“北枕”にして安置している。

 前にも述べたように、鉄器も朝鮮人によって持ち込まれ、社寺仏閣、仁徳御陵の土木工事等に朝鮮人は尊敬され迎えられたが、大日本帝国の植民地になってからは、よくなかった。ナチスドイツが700万人の外国人労働者(労働力の20%)を酷使していたのに比べると、日本は4%と少ないが重労働を外人に課しており、強制連行か、否かは少年であった阪村は知らないが、汚い重労働を我々と共にやっていた事は事実である。

 その1つにナットの製造がある。重い丸棒をかついで、ドローペンチで六角棒に引き抜くのだが、引き抜きダイスのラップ状況により、大きく弓形に曲って引き出される。それを、大ハンマーで叩いて真直ぐに矯正するのだが、そのときの“カーン”というハンマーの大音響で耳の鼓膜が破れる。戦後、これを嫌って韓国に帰り成功したのが、起亜自動車を創立した金社長である。

 さて、そのナット製造だが、真直ぐに伸ばした六角棒に、白い切削油をかけながら1個ずつナットを削り出してゆくため、作業者はカッパをかぶり、泥んこのウス暗い工場で奴隷のごとく働いていた。そのような中小企業の切削ナットの会社が、ドイツからナタップのナット製造機を輸入した。

 安い、早い、そして打ち抜きのため六角の「カド」がピンと立っている―との話である。日本は切削のナットで市場の目が慣れているため、角がピンと張っていない丸線からのフォーマーナットは売れない。また、価格的にも、5段フォーマーは工具代が高くつく。大阪は「安い、キレイ、速い・・・でないと商売になれへん。それにはこのナタップの機械はエェでぇ」ということであった。

 ナタップ社は、ドイツのナットメーカーである。ボルトはオランダのボルト会社であるネドシロフ社が機械を作っている様に、製品を主力としながらも、その主力製品の売上げの10%を機械の製作販売にあてている。日本のY・K・Kと同じである。

 ナタップ社の方式は、フープ材より打ち抜くため、角の張った六角ナットは出来るが、スクラップは50%は出る。

 スクラップを20%以下にし、価格をナタップ社より安く、生産スピードを早くすれば絶対売れる。

 世の中は不況ではない、頭の中が不況なのだ。

 需要はいっぱいあり、それを解決する頭が不況であるだけだ。それで、かつての東京工場での経験(機械は良いが、金型はすぐ壊れるということ)を生かし、その対応を講じた。

 金型のせいで機械が止まったにせよ、招待した客は機械が止まっておれば「なんや!やっぱ宣伝だけで、アカンヤー」と、帰ってしまうだろう。公開当日は、金型が破損しても、どれか一台は生産を継続するようにと、これはその昔、堺の鉄砲で武田騎馬軍団を破った信長の三段構えの戦法を参考にして、ナットフォーマーを数台並べた。

 1号機のパンチ破損で交換、3号機の2番金型焼付きで交換等が発生し、突発的に2台止っていても、残りは快調な生産を続行している体制をつくった。

 公開日は1日に限定した。ナットの販売で競争している同業者を一堂に集め、我も我もと先を争ってこの新兵器を手に入れる。群衆心理を読んで行ったが、この戦略は成功した。

 ジーッと見ていた嶋田社長は「やりよったナ阪村は、これで億というゼニをつかむデー」と言われたこの言葉が今でも耳に残っている。

 しかし、本当に成功したといえるのは、赤松が上下組合せ式で下の超硬がシュリンクケースより出ている画期的な超硬金型の開発により、安定した量産が可能になったからである。

本紙2004年8月17日付(1941号)掲載。


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