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阪村氏のねじと人生

大宮工場(本社)の建設

 ドイツで学んだ、いわゆる“見てわかる、責任の所在がハッキリする”という本社組織と工場―をつくるため、帰国後間もなしに大宮工場の建設に入った。

 工場の高さは10メートルにして、30トン天井走行クレーンを設け、先ず同業者が出来ない大型ヘッダーの組立てができる背の高い建物にした。

 工場長室は、入口の中2階に設け、工場に出入りする資材、人はすべて見て分かる総ガラス張りにした。

 工場長は眞島工作所の職長であった川口に任せた。また、機械組立てに関しては、サハリンより引き揚げ(エンジンが止まれば死ぬというような)の厳しい現場を担当してきた、いわば組立ての神様的存在の関根に任せた。設計は、弟の元亮が行った。

 ラムはロングアームとして摺動面はX・Y方向共にウェッジを入れ、油圧にてラムクリアランス“ゼロ”を計った。

 供給する線材は、ヘッダーにインラインドロワー、または、回転直線機を設けて高精度な素材の供給を計った。

 そして、先ず商品を知ってもらうことだと、東京見本市にも出品した。

 しかし、当時の日本の経済力は「まだ戦後」であって、その根は浅かった。いくら良いヘッダーを開発しても、褒めてくれるだけで買ってはくれなかった。

 大型ヘッダーをつくれる新鋭工場が出来ても、注文がなければガランとしているだけである。

 安いバー材から出来る熱間ヘッダーも開発したが、長尺ボルトを主力生産品とする熱間業界からは「やっぱり従来のフリクションプレスがええな!応用がきく」と、採用してもらえなかった。同様に、自転車の主軸を両方から圧造する“SSOD”型ヘッダーなど、いろいろ開発したがあまり売れなかった。

 そんな時、KOピンの位置が下がっているため、1番で成形したブランクが2番のパンチで打ち抜かれるという事故からスクラップレスを発見した。

 「そうだ!」線径と同じ径の2番パンチを用意すれば、スクラップレスで次々と生産できる。いちばん厄介な“切断”がいらない。KOも、トランスファーもいらない、シンプルなスクラップレスフォーマーが誕生する。世界中の金がすべて「阪村機械」に流れ込んでくる―と早速特許出願=登録番号775336、昭和36年(1961)に特許を取得した。

 しかし、このフォーマーで量産に入ると思わぬ落とし穴があった。
まず、鋼では1個目はよいが、2個目は打ち抜かれて硬化した部分がアプセットされることにより、クラックが入る。軟鉄でも2個目は、横に拡大したファイバーフローが、次のアプセットフローとラップするため、日本の市場では受け入れてくれない(台湾では1955年に特許H7―67595にて開発し、ボロン鋼にギリギリの熱処理を施し、台湾、中国の業界に受け入れられている)。

 売れないものは、いくら画期的な発明であっても、クズである。しかし、この苦労が10年後には開花して熱間フォーマーとなるのだが、その当時は知る由もなく、資金繰りに行き詰まり猛烈なノイローゼに落ち込んで行った。

 人は簡単に「なんだ、ノイローゼか」と言うが、かかった本人は正にこの世の地獄である。
 夜は不眠症にかかり眠れない。“生長の家”に入信し、谷口先生より「心こそ、心まどわす心なれ、心に心、心許すな」と、原因は自分の心が、自分の心を惑わせているだけである。他に何もない。金光教が教えている「ままよとなれ、ままよとならなければ神の助けは得られない。ままよとは、死んでもままよであるぞよ。死んで死んで死にきれ!」この世は無数の電子で出来ている。阪村も電子だ。電子は病にかからない。電子は死なない。

 目に入るものはすべてテレビの電波と同じだから、そんな得体のない現象に執着するな、自分の心の回路をよき波長に合わせれば、すべては解決すると教えられた。

 その通りである。しかし頭で解決できても、弱った体がついて来ない。そして、日本経済は戦後最大の不況に突入していった。

 昭和39年(1964)には、山陽特殊鋼をはじめ、名古屋では有名なねじ機械メーカーをはじめとし、すべてのねじ機械メーカーが倒産していった。
阪村も客先から不渡り手形をもらい、なすすべがなかった。

本紙2004年7月27日付(1939号)掲載。


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