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阪村氏のねじと人生

株式会社の設立

 「関西はアカン!やはり関東、東京へ進出しないと、企業の発展はない」と決断し、昭和32年(1957)、渋谷の知人宅を借りて東京出張所を設けた。

 その時紹介されたが、東京阪村の礎となった小野田氏である。小野田氏は一つ年上であったが、アランドロンそっくりの美男子で、特攻隊くずれのチャキチャキの江戸っ子である。

 それまで阪村は一人で都バスに乗り「運転手さん、ワテここで降りまんネ、止めてくれまへんか」というと、乗客がドッと爆笑する。関西弁が東京では漫才となる。銀座のキャバレーへ遊びに行っても、お客さんあんた関西ネ…と馬鹿にされる。

 お金を払って遊びに来ているお客に対して“なんや”と腹が立つが、そこが東京である。実際に商売上でも「阪村のヘッダーは長いボルトが打てるから儲かりまっせ」と商談に入っても、“いらねェったらいらねェよ”と、ケンもホロロで、値段の高い、安いを問う前に断わられる。

 特に「大阪」というと、東京からみると、朝鮮か台湾と同じように見えるらしい。先ず、安いが騙されるとか、或いは採用してもスグ壊れると軽蔑の眼でジーと見られる。

 それに機械の場合は、アフターサービスが問題となる。現在でもそのため、東京阪村は関東における唯一の“アフターサービスにすぐ参上できるネジ機械メーカー”としてお引立てを頂いている。

 当時は急行列車で大阪―東京は12時間かかった。車ではガタガタ道の東海道を2日かけての旅である。そのことからも、やはり東京に工場を建て、東京の人にやってもらわなくては…と決心し、土地の買収に入った。

 業界では当時神様のような存在であった東京自動機の近くに工場を設け、大阪からはすぐ分かる環状線と4号線の交差点に当たる足立区中央本町を選んだ。

 昭和33年、東京工場は鉄骨でつくり、天井走行クレーンを設けて完成した。しかし、それで資金は使い果たした。東京工場の工作機械は、補修に使える旋盤1台とボール盤1台の出発である。

 販売する機械は小野田が売ってくると、大阪で作っては東京工場へ運びこみ、そこで試運転を行って、東京の客先に納入する。それでもメイド・イン・トーキョウである。アフターサービスができる。

 納期が遅れると、小野田が自分でトラックを運転して大阪までとりにくる。出来るまで工場の横にトラックを止め仮眠して待っている。客との約束に対して、責任感の強い男である。これには参った。二晩ぶっとおしの徹夜を行い、トラックの上で色を塗って、発送する。

 このように、当初は自転車操業だったが、関東は広く、東京市場にはよく売れた。

 昭和34年(1959)、念願の株式会社阪村機械製作所を設立した。31歳の青年社長の誕生である。

 好運に恵まれたこの年に三菱商事(株)のニューヨーク支店が、ねじ機械の大量輸出契約に成功した。その発注先として商談を持ってきた。中古のねじ機械商がアジア旅行の時に、小型ヘッダーが15万円で日本では売られているそうだが、20ミリ径のヘッダーが欲しいのだが、安くつくれるか―との質問である。

 「日本では、先ず線材が12ミリまでしかない」と答えると、「アメリカへ来い、アメリカの客先で20ミリ径のヘッダーを見せてやる」と。また、試運転の線材は飛行機で送ってやる―との話である。

 早速その話に飛びついて7月にアメリカを訪問した。

 まだプロペラ機の時代のため、ハワイまで12時間更にロスアンゼルスまで12時間と、24時間かけての太平洋横断である。

 ロス上空から見た5車線の高速道路を、キャデラックのオープンカーが滑るように走っており、お伽の国へ来たようであった。きのうまで日本中で走っていた弥次喜多東海道そのままのデコボコ道と比べ、何とスゴイ国だろう―と見とれていた。

 ホテルへ着いても、荷物はオープンカーの上に置いたままでのチェックインである。アメリカには泥棒なんかいないから心配するなと言われて、レセプションの皿に盛られているチョコレートを三ケ頂いて食べた。

 世界唯一の無傷で戦いに勝ったアメリカである。全世界の富がアメリカへと流れこんでいた良き時代のアメリカへの第一歩であった。

本紙2004年5月27日付(1933号)掲載。


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