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阪村氏のねじと人生

堺の鉄砲とネジ

 堺は瀬戸内海の終着駅である地形に面しているため、古代から中国人、朝鮮人が色々な鉄器類を武器や農耕の道具として持ち込み、河内平野に住み着いている。河内王朝の成立である。中国5世紀代の史書「宋書」に、倭の5王(讃・珍・済・興・武)が国内の支配と朝鮮半島での権益を争ったと記しており、在位413~430の讃が仁徳天皇と言われている。

 仁徳天皇御陵からは、その頃の朝鮮・百済国王であった武寧王(523没)の古墳からの出土品である柄頭、鏡、鈴と同じ物が出土され、ボストン美術館に所蔵されている。中国、朝鮮からもってきた鉄を熱間鍛造で鍛伸を繰り返し非金属介在物を微細に砕き、強靭な鋼に変えて武器や、土木工事に用いる鋼を作っていたのが堺である。その鍛造技術で作られたスコップ、鍬によって濠が掘られ世界最大級といわれる巨大な仁徳天皇陵の築造が行われたのである。
 
 御陵は天皇の墓であると共に、ため池を掘って水田の水を確保し、支配を拡大する治水王のモニュメントでもあった。世界に例のない三重の水濠をめぐらし、一日千人近く働かせて4年かかり、延べ百四十万人で完成し、黄河をおさめた秦の始皇帝やナイル川をおさめたエジプトのファラオに比すべ“治水王”の大事業を仁徳天皇陵は行っている。
 
 このように、河内王朝は治水に配慮したため「民のかまどはにぎわいにけり」と天皇の仁徳が敬われたと史書に述べている。
 
 堺で鉄砲が、そしてネジが生まれたと簡単に言うが、すでに堺では鉄の鍛造技術が確立し、受け入れる地盤があったという事である。しかし、鉄砲が種子島から直接堺に伝来したのではない。紀州の地侍、津田監物が珍しい兵器が種子島に伝えられたと聞くや天文13年(1544)3月には二丁のうちの一丁を根来寺に持ち帰っている。金をばらまいた情報収集の力である。その行動力は見習いたい。そして、その津田とは縁続きの堺の貿易商人である橘屋又三郎がその後種子島を訪ねて製銃の技術を学んで堺に持ち帰り、火縄銃の大量生産に成功した。その新兵器は30年の間に日本全国に拡がり、二丁のサンプルが三千丁となって長篠の合戦に活躍したのである。世の人は「鉄砲又」とよんだという。津田監物は根来寺一山を巨大な兵器工場となし、根来鉄砲軍団をひきさげて戦国の野に旋風を巻き起こしている。
 
 問題は量産に入ると熱間鍛造で雌ネジを成形する方法では精度が出ないため、均一なネジを作る事は不可能な点にあった。そこで堺で開発されたタップ(ネジガタ)により1585(天正13ん年)に分業による見込み生産が行われたといわれている。
 
 「国友鉄炮記」には寛永10年(1633)次郎助が刃の欠けた小刀で大根に穴をあけ捻が出来たと述べているが、嘉永元年(1848)の中島流炮術録には穴の中に半割りタップを入れ、セリ木に紙を重ねて能く仕上げよ・・・と述べている点から技法は秘中の秘であっても雌ネジ、雄ネジ(尾栓)の量産化が堺で行なわれていた事は事実である。
 
 天正3年(1575)。最強とうたわれた甲州武田の騎馬軍隊を破った「長篠の合戦」は堺がつくった三千丁の新兵器鉄砲によるもので、これにより全国に土着する武士を自らの手足のごとく、強力に束ねた武将は織田信長であり、それを実現したのは豊臣秀吉であるが、この天下統一を可能にしたのは新兵器の鉄砲であり、それを可能にしたのが「ねじ」である。鉄砲の出現で、全国の武士は強大な勢力の傘下に入ることなしに、地方で生き残る事は出来なくなった。この“ネジと鉄砲”を量産し、日本史を変えるほど革命的な生産を可能にしたのは堺であり、今でも堺市鉄砲町と町名が残っている。

本紙2003年8月27日付(1906号)掲載


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