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阪村氏のねじと人生

金型の研究

 5段式ナットフォーマー1号機の開発は、金型で失敗した。そのため阪村は、金型の研究に入った。

 超硬合金はドイツで発明され、我々が手にしたのは昭和25年頃である。

 超硬合金は、タングステン、コバルトの粉末を焼結して簡単に出来る。硬いだけが長所で、カステラの如く靭性がないため伸線ダイスに用いたことがあった。即ち、阪村が昭和26年(1951)に印度へ輸出した伸線機のダイスは関西合金研究所で試作されたもので、焼結時に発生するピンホールがあり、線引きすると線の表面にカキ傷が発生する。

 そのため、ダイスのラッピング機も一緒に出荷して印度でラッピングを行った。

 この当時日本での主力は“叩きダイス”だったが、これは年配の熟練工でないと出来ない。その代り金型を作るのは速かった。

 アメリカのバイヤーから見本のボルトを頂くと、現物をノギスで測りながら、ダイス鋼を旋削して作り、焼入れは穴部を水冷で行った。一定の冷却域に達すると周囲を油冷する。

 即ち、焼入れ・テンパー・圧入の工程を5分間で同時に行う神業である。

 ラップしてヘッダーに取り付け、夜中の12時頃には1000本程度のサンプルボルトが出来上がっていた。

 翌朝、ローリングでねじをもんで、バイヤーに持ってゆくと「アン・ビリーバブル」とびっくりする。

 現在では金型の見積りだけに2~3日はかかる。CAD/CAMと言っている間に、職人の金型は出来る。「温故知新」である。このシステムをデジタル化し、1日で金型が揃う方法をどうしても開発したいと思っている。

 「パンチ」は、お餅を焼くように、変態点での変色を見ながら、入念にテンパーを施して用いる。ヘッダーを回しながら、片手間に熱処理を行うため職人の得心のいくテンパーがかけられる。

 しかし、この「パンチ」で圧造しても、ナットの工具はもたなかった。

 そのとき手に入れたのがドイツのスタッセン、プレッセンという冷間鍛造の専門書である。

 ―冷間鍛造には、1に素材、2に圧造工具、3に金型、4に潤滑剤―と記してあり、硬い素材は熱間鍛造を用いるしか方法がない(変形抵抗が10分の1に低下するから難形状のものでも楽に整形できる)。

 次に大切なのは圧造工程で、いかに工具に負荷をかけずに多段工程を活用して成形するか等が述べてあった。

 つまり、おにぎりを握るコツである。圧造工程を無視して、1つの型の中で無理矢理に圧縮してもフローが流れず、無限大に負荷が増大し「パンチ」が爆発する。

 現在では小林教授がアメリカで実用化した有限要素法による工程荷重のシミュレーション(CAE)にて観察できるが、当時は経験と勘カンピューターだけであった。

 次に、冷間圧造とは“摩擦との闘い”である。

 潤滑剤により、素材が抵抗なく金型の面を滑れば「軽い負荷にて成形できる」との事である。

 考えてみれば当り前のことだが、ドイツはそのデータを実に詳しく調べ、発表している。戦艦「大和」の46センチ砲(330キログラムの火薬を3300気圧に爆発させ、1・5トンの弾丸を4万メートル飛ばす)、あるいは20メートルの砲身に幅6ミリ、厚さ1・5ミリのピアノ線の帯を二十四重に巻きつける方法も、ドイツのクルップの発明である(帯の長さは呉駅から米原までの380キロ米)。

 第一次世界大戦後、軍備が出来ないように連合軍により銅の輸入を完全に止められたドイツだが、ボンデライト、ボンダリューベの発明により、銅の冷間鍛造に成功した。

 戦車が空冷で砂漠を走るロンメル機甲軍団をつくったドイツは、単にヒットラーが独裁だったというだけでなく、DIN規格といい「哲学」「音楽」すべてにおいて、優れた国民性を持っている。

 共に戦ったドイツである。共に、徹底的に敗れた国だが、すでに奇跡の復興を遂げ、車の生産も100万台を突破したと言っている。

 「ドイツへ行ってみたい…」「ドイツで色々な事を学びたい…」

 ドイツ~ドイツと、あこがれて、冷間鍛造の金型の研究を行いながら、その日を待つ毎日であった。

本紙2004年5月17日付(1932号)掲載。


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