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阪村氏のねじと人生

台湾

 昭和27年(1952)10月、印度での仕事を終って帰国した。
 工場は、警察予備隊より転職してもらった弟、元亮が守ってくれた。

 仕事は、相変わらず針金の加工機である。蛍光灯を吊り下げる鎖の機械とバネ捲機はよく売れた。この捲いたバネの両端をグラインダーで、平面に研削するガードナーという機械もよく売れた。

 このガードナーは、熱間フォーマーHNP40型で鍛造したワッシャーを、熱処理後に両面研削し、平行度、面粗度友に高精度に研削して、トヨタエンジンボルトの要求する座金に仕上げられた。そのため蛇川氏より「トヨタ賞」を頂いている―とユーザーより聞いたが、それも40年も経った後の「温故知新」談である。

 曇りがちの景況下で、やはり当時は仕事がなかった。

 靴下を留める「ソッパス」という金具の特許(30―3319)をとり、その製造も試みたが、よろず承りの弱小メーカーとしての存在でしかなかった。

 大きな理由は、ねじ機械メーカーとしてのブランドが無かったことである。

 昭和30年(1955)代は、90パーセントの市場が「東京自動機」「ヤナセ自動機」で占められていた。昭和13年(1938)に、谷口氏、柳瀬氏が関根鉄工所より独立して、それぞれに設立した会社である。戦時中は海軍航空廠、陸軍造兵廠をはじめ、名古屋螺子等に納められており、ヘッダーとともに、ローリング、木ねじ切り機械、頭摺割機等関連機械を多数製作していた。

 そのため、阪村は隙間商品として、ロングのヘッダー製作に入った。

 ロングの場合は、コイルを直線にするため、回転直線機をヘッダーの送りロールに設けた。また、ラムはロングアームにして、プラスねじが打てる―等とPRしたが、ホンダドリーム号のシャフト軸を冷間成形するためのニーズで、大型が1台売れただけであった。

 機械メーカーは、実績と信用が要る。いくら「理」に叶ったメカニズムだと説明しても、買ってもらえない。

 結局販路の拡大は、当時自由に往来できない海外市場の人達との貿易に頼らざるを得なかった。

 その時にボルトのプラントとして台湾より商談があった。

 私が印度から帰った時は、蒋介石総統も台湾に逃げ込み、国民政府として食ってゆかねばならないのだが、台湾は日本の植民地の一つの島であったため、砂糖キビの畑があるだけで、産業施設は何もなかった。

 台湾において、原材料のコイルを日本より輸入し、製品が全世界に規格品として売れるもの、それはその当時ねじしかなかった。それで、蒋介石総統は吉田首相に「暴に報いるに仁をもってなす」と、中国に残留した日本兵、日本人はすべて傷つけることなく日本に送り届けた。賠償も要求していない。その仁に対して援助してほしい―と申し入れ(実際は、日本の武器、弾薬、工業生産施設を無償で徴収する手段)があり、阪村機械も通産省よりの指示で、台湾に輸出する事となった。

 当時の日本では、六角ボルトは絞り出し方法で、天削りと首下削り機で仕上げていた。トリーマーの機械は東京自動機でも製作しておらず、日本には1台もなかった。

 阪村は、ヒルゲランド社のカタログと論文から、六角の対辺部の分子が破壊するまでに、圧縮して打ち抜くと、剪断ムシレのない六角対辺を得ることができる事を発見し、従来の絞りプレスを改造したトリーマーを、六角ボルト用トリーマーとして台湾に初めて輸出した。

 現在、島全体がボルト、ナットの様な台湾になっているが、一粒の種は、蒋介石総統の「暴に報いるに仁をもってなす」から始まっている。

 我々は、一つの事に集中すると、不可能が可能になることを数多く台湾の方々より学んだ。また、沖縄攻防戦の特攻機は、九州からだけでなく、台湾からも数百機と突入しており、阪村機械(株)東京支店長であった小野田氏もその一人である。


本紙2004年4月17日付(1929号)掲載。


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