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阪村氏のねじと人生

印度(インド) 2

 印度では約1年、機械の組立て、据付け・試運転、そして指導を行った。
 線材はガラ巻き機にて大きなスケールを落とし、酸洗を行って水洗、更に石灰槽に浸すのである。

 石灰は、現在のボンデライト、ボンデリューベを一度に行うシステムのため、石灰粉を線材に固着させる石鹸を、石灰槽の中で一緒に溶かし、80度位で付着させる。

 当時の伸線ダイス面粗度が悪かったため、素材の表面皮膜を充分に施してないと、焼付きが発生する。最近遅れ破損を避けるため、10T以上のボルトメーカーは、ボンデ(浸リン)をさけて石灰の線引きに戻ってきている。

 石灰は、アルカリ性にて酸洗いの酸を中和させる性質をもっている「温故知新」である。

 工場建設で苦労したのは言語である。そのため得意のイラストをフルに使って表現した。絵には言葉はいらない。

 次に困ったのは電気製品の破損である。ソニーも、NECもなかった時代で、粗悪なエボナイトのマグネットスイッチは、その振動ですぐ壊れた。

 これには泣かされた。幸い、オン・オフの簡単な電気制御で機械が稼動するため、ナイフスイッチに取り替えたり、市場で英国製のマグネットスイッチを買って来て取り替えた。

 英国人に、オモチャみたいな機械を印度に持ってくるからだ―と笑われたもので、そのオモチャの「零戦」に英国東洋艦隊が沈められたのだから、「あまり威張るな」と言ってやったが、印度でもメイド・イン・ジャパンは「安くて粗悪な物」の代名詞になっていた。

 カルカッタの道端で売っている雑貨品の裏には、メイド イン オキュパイドジャパン(占領下の日本製)と印字されていた。

 これらの類は、占領軍のビールの空き缶を拾ってきて、ローソクの火の下で手作りで作った雑貨品で、10円均一、安い安い―と印度の道端で叩き売られていた。

 戦勝国で、独立を達成した印度にも、悩みがあった。第一には宗教の問題である。

 宗教を大きく分けて、ヒンズーとイスラムがある。そのため独立時に、東のバングラディッシュと、西のパキスタンにイスラムは分離までして独立したが、入り組んだ末端まで完全に分けることはできない。

 次に、階級制度である。これは日本にもヨーロッパにもあったが、印度は英国の植民地として統治に都合がよいため、それが残っていた。これが会社の運営に障害をもたらした。

 非常に熱心に学ぶ青年の給料を引き上げ、期待してみても、昇給した分だけ休む。お釈迦さまでも「縁なき衆生度し難し」と言っているが結局、人に頼るより“機械”だ―と、痛切に感じた。

 「門の前に100万人」と失業者が列をつくるが、機械を壊してしまったり不良品を作るような人手より、全自動の機械を開発する方が、時間的に考えた場合、全ての人を教育するより余程効率的である。

 阪村の自動機に対する哲学は、YKKが全世界の工場に配備した「完全な全自動生産システム」を手本として生れている。

 そのためには、絶対故障しない構造につくる。故障しても、簡単に現地人が部品交換を行える構造につくる。シンプル イズ ベスト。消耗品も現地でスグ手に入るものにする。

 印度で一ヵ年滞在中に阪村は、50数台の機械を立体図で表し、部品交換とチェック項目に日時のサインを入れて、毎月交換を行う一覧表を各機作業台に貼って、繰り返しの「躾(シツケ)」教育を施して印度を去った。この思想はそのまま株式会社阪村機械製作所に引き継がれ、今日の繁栄につながっている。

 「ねじと心は緩むもの」

 緩みは隙間から発生する。この隙を与えないで見て分かるチェック表を作成して、自分自身をチェックする。

 「この秋は、雨か風か知らねども、今日の勤めに田草取るなり」

 豊田佐吉氏が自動機械開発中に口ずさんだと聞いているが、「事を図るは人にあり、事の成るは天にあり」で、自動機の開発とは永遠の課題である。

本紙2004年4月7日付(1928号)掲載。


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