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阪村氏のねじと人生

サンフランシスコ講和条約

 朝鮮戦争が勃発しておよそ1年後の昭和26年(1951)9月8日、「対日講和条約」が49ヵ国と調印(ソ連、中国等を除く)された。機運は、日本にとって運命的といってよい。

 就中、運命には二種類ある。どうにも仕様のない運命を“天運”という―と、教えられてきたが、敗戦国日本にとっては「共産主義」(対立的観点において)は、日本を復活させてくれた“天運”である。その天運の導くまま、日本の運命は飛躍的に開けてゆく。

 昭和23年(1948)、北朝鮮が共和国成立を宣言。翌24年、中華人民共和国の成立。ヨーロッパでは“鉄のカーテン”で東西冷戦がはじまる。

 朝鮮戦争が3年も続いたため、日の丸国旗の自由使用、三菱、三井の財閥復活成り、原爆を研究していた仁科芳雄氏をコペンハーゲン招待、湯川秀樹に中間子論でノーベル物理学賞。

 昭和25年(1950)には予備隊(自衛隊)が7万5千名をもって創設され、同年6月29日に朝鮮戦争の警戒警報が発令され、小倉、八幡、門司市は灯火管制を実施(大阪は電力不足で停電のためカーバイトの灯で鉄条網を生産してアメリカ軍に供給していた)。

 戦後、模型飛行機すら研究が禁止され、タンポポを飛ばして飛行機への情熱を紛らしつつ、この当時吉見製作所で鍋や釜を作っていた「零戦」の堀越二郎氏や、「隼」の太田稔氏、「紫電改」の菊原静男氏、「飛燕」の土井武夫氏たちにも、ここへきてやっと情熱の灯をともす開発の春がおとずれた。

 彼らは新たな目標を見つめて集まった。そして「YS―11」の開発に入った。

 日本の空を、日本の翼で!これが合言葉となり、昭和26年7月、“日本航空”が設立された。

 そして日本の物づくりが、ここに夜明けを迎える。

 自転車の横に補助エンジンをつけた単車「カブ」を本田技研が開発・発売し、日産自動車が昭和27年に戦後初のダットサン・DC3を、そして早川電気(シャープ)が白黒テレビの生産に入った。

 松下電器も、テレビを作るといって、工場から生産設備の一式を阪村機械に発注した。

 国道1号線の守口交差点に、バラック工場があったので、月産15台のラインをつくった(平均賃金5千円、当時テレビ16万円)。3年以上の給料を貯めないと買えない「こんなものを誰が買うのか」と、ボヤキながらつくった。

 松下幸之助氏は、「2又ソケット」を発明した時も、材料のエボナイトをこねる職人に弟子入りし、作りあげては自分で売って歩いた。

 そんな売り先で「そんなもんいらん“絶縁碍子”つくってみんか」と川北電気に言われて、愛知県の瀬戸市まで行って碍子を作りながら「2又ソケット」の改良を続けている。蛇足ながらこれが縁となり瀬戸螺子(東海精圧~TRW)にヘッダーの仕事がつながっている。

 松下電器が蛍光灯の生産をはじめた時は、天井から吊り下げる鎖の鎖の機械は、すべて阪村機械で作った。松下とはいろんな関係があり阪村佳伸(長男)は「松下電工」東京本社で、今でも頑張っている。

 松下飛行機という会社を東大阪の住道(すみのど)につくり、木製の飛行機を軍に納めていた工場跡地に、井植歳男氏が独立して三洋電機をつくっている。

 三洋電機の出発の商品は自転車用の豆ランプである。

 夜間の自転車は、カンテラというブリキの箱に、ロウソクで灯りをともして走るため、風が吹けば消える。それで、豆ランプと乾電池を組み合わせて「消えないカンテラ」寿命40時間保証を行って売り出したが売れない。

 そこで「2又ソケット」の発明で、発明と販売は別だ―と思い知らされている松下氏は「品物を置かせて下さい、代金は売れた時で結構です」と、全国の小売店をショールームとして活用したのである。

 このランプビジネスで松下は飛躍的に伸びたが、阪村機械のヘッダーも小ねじの生産で売れるようになってきた。

 天皇陛下より強い権限をもっていたマッカーサーは解任され、20万人の日本人に見送られながら、

       「老兵は死なず、消えてゆくのみ」

 の言葉を残してアメリカに帰った。

 天命と宿命に踊らされた戦後は終った。

本紙2004年3月7日付(1925号)掲載。


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