阪村氏のねじと人生
朝鮮戦争
開発した自動機は、近くの美由木商会に「三万円」で買って頂いた。
兎にかく、売らなければ金がないのであるから前へ進めない。次はヘアーピンその次は針ピン、ゼムクリップ、ホッチキスの針を作る機械・・と、異なる次の一台へと途切れ途切れの注文であるが、無いよりましである。
何しろ日本全体が、金もなければ市場もない廃墟である。
注文があれば、手付金として前金が頂ける。これが資本のない機械屋の運転資金となるため、やめるわけにはいかない。正に自転車操業である。
止めれば倒れる。必死である。営業も、設計も、外注も一人でやるから忙しい。朝の7時から夜は午前3時まで、設計したり、客先へD・Mを発送したりで12時までに寝たことはなかった。
家は借家であるため、家主が家賃の値上げに毎月やってくる。あまりの値上げに「応じられない」というと、それだけ稼ぐ能力が無いのだから「もっと貧民部落へ移るべきだ」と追い出しにかかる。
貧より辛いものはないというが、そのとおりである。
ナショナル王国の礎を築いた松下幸之助氏がこの当時「日本一の借金王」と言われた時代である。
幸之助氏は、戦争中に軍の要請で、阪村の祖父が開拓した大和川の三宝浜に「松下造船」をつくり、200トンの木造輸送船を建造し、終戦までに56隻を軍に引き渡しているが、終戦ともに残ったのは借金だけとなった。
松下幸之助が家に帰ると毎日正座して写経している。文字は「金、金、金」と一心に書き続けていた―と井植(三洋電機会長兼CEO)が言っている。誰にでもそういう時代はあるものだ。
さて、貧の時代ならこそである。毎日買いに行く日本鋲螺店でも、ボルト200本買えば必ず「現金やで」と、現金で支払わされた。そんな毎日だが、母は一言も愚痴をいわない。朝日を拝む「お天道さまは無言だけれども万物に恵みをあたえる」と、ひたすら「与えるだけである」と拝んでいた。以前にも記した“信田の母狐”譲りの唯一の信心だと思う。
松下幸之助も、信念の矢は岩をも貫く、と「M」を矢が貫いたのを社標としている。
目に見えないが井原西鶴も、信心は心掛けの問題で、天につながっている。行いはむしろ結果であって、どのような心を持つかが問題である―としている。
平たく言えば、金儲けのコツは「もったいない」とお金を拝む信心にある―ということである。そして時を待つ。
母は「桃栗3年柿8年、芳一も30にならんとアカンな・・・」(子供やからな)と言って待ってくれたのであったが・・・。
そんな時、久保田社長の言った「世の中はじっとしてはいない、動いている」(学徒動員の項参照)という第2の「運」がやってきた。朝鮮戦争の勃発である。
1950年6月25日北朝鮮の人民軍が38度線を突破し、3日目の28日には、ソウルを制圧した。
韓国軍及び米軍は後退を続け、8月18日、韓国政府は釜山に遷都した。
この騒乱で、皮肉にも日本は一変に好況となり、北朝鮮軍を防ぐための鉄条網用の機械はいくら高くても売れた。
戦乱のゆくへは見えないまま、マッカーサー司令官は北朝鮮軍の補給路を断つべく、9月15日仁川上陸作戦を強行し、戦況を逆転させた。
いったんは北朝鮮軍を北限にまで追いつめたが、10月25日、中国人民志願軍が参戦し、1951年1月4日、再度ソウルが北軍により制圧された。
再度韓国軍がソウルを奪回する。このように奪回と攻防戦が繰り返される下で、韓国軍死傷者99万人、北朝鮮・中国軍約100万人、民間人も南北あわせて200万人の犠牲者を生んだ。
民族同士で血で血を洗う不幸な戦いは、1953年7月27日の休戦協定まで、3年と1ヶ月続いた。
しかし、このおかげで日本の運命はガラリと変わった。ボルネオ並みのアジアの農業国にするとの米国の日本への占領政策は根本から軌道修正され、日本を工業生産国へと大きく変更させたのである。
賠償指定は解除され、鉄鋼生産年300万トンの上限枠は「無制限」に撤廃となり、自動車をつくってもよろしいとなり、三菱、三井は復活し、日本はアメリカの不沈空母として、太平洋の最前線基地へと変ぼうすることになる。
本紙2004年2月27日付(1924号)掲載。
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