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阪村氏のねじと人生

YKKと自動機

 無一文から立ち上げた衣料用等のファスナーの会社(製造)は、ファスナーの土台となるテープの布が粗悪品であったため、エレメントが傾いて絡み合いうまく機能せず不良品となった。結局、阪村のこのファスナーの会社は借金を残して倒産した。

 倒産に追い込まれた一つの大きな理由は、競合メーカー「YKK」の出現である。

 我々はスクラップを拾ってきて、不純物の配合されたままの真鍮平線からエレメントを打ち抜き、更にテープへの植付けは「クシ」と呼ばれるヤットコに並べて、手回しのスクリュープレスで植付けを行っていた。一方YKKは、アメリカから自動機を買ってきて、全自動で正確に植付けるため高品質であった。金属素材はフィリピンから輸入し、テープの布はジョージアの綿を輸入して、自社でつくった。

 すべての素材から、機械設備を含め輸入で整え、品質でYKKのブランドを確立すると、更にすべての設備を内製化した。同社の先行はここからである。

 平線2本を送りロールでダイにて平線上に凸部と凹部を成形し、カッティングと植付けを同時に行う画期的な自動機を開発した。

 いわゆる、他のメーカーの「種子島銃」に対し、これは「機関銃」の出現といってよい。約300社あったファスナーメーカーはアッサリ生産をやめ、YKKの製品販売店となった。

 YKKの経営哲学である「相争うことなく、処を得て仲良くやってゆこう」という“善の循環”である。吉田忠雄氏がアメリカから機械を買う動機は、昭和12年(1937)7月に、自信作のファスナーを1本9セントでアメリカのバイヤーに示したら、逆に彼がカバンの中から取り出した米国品を1本7セントでどうですか―と示され、それを手にした吉田は絶句。

 胸中には持ち前の負けじ魂が燃えたぎっていたが「手先がいくら器用で3千円という低賃金」だとはいえ、それにも限界がある。

 日本の低賃金に頼ってはだめだ。機械化、自動化の時代だ―と、最新鋭の米国ファスナー機の輸入に踏み切ったのである。

 しかし、ドルが割り当て制のため「中小企業が3万ドル以上もする機械を輸入するのは分不相応」と通産省に断られ、日本興業銀行からの融資も渋られたが、それを説得し昭和24年(1949)には4台を導入した。

 そして10日後にはフル生産に入った。量産が軌道に乗ると、日立精機になんと100台のコピー機をつくらせて、一気に日本市場を押さえてしまった。

 現在は自前の機械工場で色々なノウハウを入れて、世界最高の自動機をつくっている。海外の現地法人は57ヵ国91社、従業員1万7千名で、世界シェア50%を超えている。1台の生産数は1分間に3千個(高速ナットホーマーが5百個だから6倍の速さである)その機械50台を、1人の作業員で管理できるシステムが、自前の工場設備故に可能としている。

 また、ファスナーの材料革命といわれたアルミ合金「56S」や、コンシールファスナー(表面から見えないファスナー)の商品開発も行っている。

 1908年9月19日、魚津で生れ、小学校を出た吉田氏は一文無しの出発で、世界のファスナーを制した。

 やはり物づくりのキーポイントは“機械”である。自動機を作ることである。阪村は再び挑戦する。

 朝、目が覚めると枕の横に“オニギリ”と昨日頼んだ金策の3千円が母の気遣いで置いてあった。

 母に済まない。あてもない開発に金を注ぎこんでいるのに、文句一つ言わず金策をしてくれている。

 果たしてこれでよいのか、会社を辞めなければよかった。いくらもがいても、出てゆく金のほうが多い。

 「自動機を作りたい!」

 その一念で開発したのが靴下の「止め金具」を毎分150個生産する自動機である。1万5千円で出来た。
 
 同機は、サカムラの自動機1号機として京都工場開発室に展示してある。今でも動く―。

本紙2004年2月17日付(1923号)掲載。


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