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阪村氏のねじと人生

ねじと鉄砲

 ポルトガル人は、鉄砲を船に積んでいた。初めて鉄砲を見てその威力に驚いた16歳の若い島主・種子島時尭(ときたか)は早々に二丁を入手した。現在の金額で500万円(金三・三キロ)を支払ったらしい。そして複製の製作を矢板金兵衛に命じ、島の鍛冶達につぶさに見せて製作に入った。島の鍛冶をまとめる“総鍛冶”を務めていた金兵衛は41歳。脂の乗りきった仕事盛りである。
 

 金兵衛は苦心の末、三ヵ月後には形だけをつくり、数ヵ月後には寸分たがわないコピー銃をつくり上げた。ただ一つ、どうしてもコピーできないものがあった。それは「雌ネジ」である。このナットの雌ネジ切りがどうしてもコピーできない。

 雄ネジは糸を螺旋状に捲いてヤスリで仕上げるとか、三角形状の針金を捲いて溶着させる等方法が計れたが、当時の日本にはタップの発想がないため銃底をふさぐ尾栓(プラグ)を入れる雌ネジの加工がどうしてもできなかった。
 やむなく銃身の底を焼き締めで鍛接し三十丁をつくった。このため複製銃は、銃底にたまった火薬のカスを取り除くことが困難であった。十発も撃てば一杯溜まる。また、銃腔の真直度が鍛接時に歪み、それが見えないので修正出来ない。また、導火孔が目詰まりするため、不発や暴発を引き起こし致命的な欠陥銃となっていた。しかし、種子島は薩摩からの侵略で屋久島を取られており、防戦にこの鉄砲を用いたため、戦いは十倍の敵を敗り圧倒的な勝利となったが、鍛接部がはずれるため肩を砕くという事故もありネジの開発が強く求められた。

 これを解決したのは“お金”である。“雌ネジ”を製作する技術が高く売れるというのでポルトガル人が鉄砲鍛冶を連れて寧波より再来した。
製造方法は鍛冶説と切削説の二つがあり、どちらが先なのか分からない。金兵衛の娘、若狭16歳(大永7年4月15日生まれ)をポルトガル人に嫁がせ、真赤に焼いた銃筒に冷間の雄ネジを入れて叩き出すというその秘法を手に入れたと種子島では伝えられている。雌ネジが完成すると若狭は大病で死んだと偽って葬儀を営み、ポルトガル人と離婚させたとあるが、この悲話は島の言い伝えだけだと思う。
いづれにしてもその昔、種子島にて鍛造で雌ネジが開発されたので熱間鍛造で雌ネジの成型が出来ないものかと、社団法人日本ねじ工業協会では火縄銃ねじ類調査特別委員会を設け、加熱した銃身に冷たい雄ねじを入れて鍛造するという方法で実験した。

 ねじ山角度を現在の2倍の120度~130度にすると熱間鍛造で成形出来るという事は立証できた。“阪村機械製作所”ではナットフォーマーでナットの六方向からの閉塞鍛造にてフォーマー内での圧造による雌ネジ成形の方法について試行錯誤を繰り返してみたが、現在のネジ規格である60度の山形では塑性変形の面積拡大率があまりにも大きく、冷間では無理である事が分かった。現在は、ロールタップによりラムの前死点でピッチ送りをかける。「盛上げタップ」により5山で毎分80個の圧造成形に成功している。

 現在特許申請中のダイブロックが回転が回転するトランスファーレスのタップフォーマーを開発すれば、ピアスの金型がブランクを入れたままタッパーステーションに移動するため、移動タイミングのロスがなくなりネジの直角度と有効径面粗度に「関の孫六」の匂いが漂う雌ネジが成形出来るのではないかと夢を燃やしている。

本紙2003年8月27日付(1906号)掲載


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