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阪村氏のねじと人生

新日本産業(株)そして独立

 会社の社名は変わったが、軍需生産から民需生産への切り替えは、いつの時代もそうだが、そう簡単には行かなかった。
 その一つは、インフレであった。
 アルミ合金から民需用の黄銅製品に転換したが、軍の倉庫から運び出した銅が、加工賃より素材の値上がりの方が速いため「そのまま何もせずに値上がりを待っておった方がよい」ということになる。

 しかし、戦前中生産に没頭していた職人は、果てのない値上がりを待つよりも付加価値の高い製品の製作開発に入った。

 現在の塑性加工でいう異形状の伸線である。

 伸線機の軸受を樫材で作ってショックを消し、銅60、亜鉛40の硬い配合の真鍮材から、異形状の線を引出すのに成功した。金型は「青鳩印」の叩きダイスである。

 当時の鋼は、成分でなく商標で決めていた。求める形状の絞り角の施されたピカピカのテーパー状ポンチを穴の中に叩き込み、熱処理が終わってからポンチをゲージにして、ダイスの周囲を叩き、加工硬化した分子で中心部を作る方法である。特長は、ダイスがすぐ出来ることである。

 この当時は、超硬ダイスもハイス(高速度鋼)もなかった。そのため、100メートルも線引きを行うと0・1ミリは太る。何回も周囲を叩いて金型補正を行い、超高精度な異形線を伸線した。素材も、1回の工程で加工硬化するため、焼鈍を何回もワラ灰をかぶせて行った。

 クーラントオイルは、ナタネ油を用いた。

 このように職人の腕により生まれてくる異形製品は差別化され、高く売れた。

 戦火などにより住宅、工場など建築物はすべて焼失しているため、戦後復興の必要資材としてよく売れたが、給料が倍々ゲームで上昇してゆくため、会社経営は考えられなかった。

 昭和21年(1946)2月17日に突然金融緊急措置令が公布され、すべての銀行が封鎖された。預金が引出せないのである。手元にある現金も無効である。使えないのである。

 2月25日に新円との交換が開始されそれも「1人100円まで」とされた。今だったら果たしてどうなっているだろうか、考えられない事だが実際に行なわれたのである。
お金より物である。工場長も課長も次々と会社を去り、自分で物をかき集めて闇市で売る。

「お金より、物である」

 阪村も独立のチャンスは今だ!と、新日本産業を退職し、三日市に「日本伸銅」という会社を設立した。生産設備は溶解、圧延・伸線とそれぞれ整えた。
真鍮のスクラップを焼跡より拾って来て、それをルツボで溶かし、ロールで圧延して平線に引くのである。800度で溶けるため“ぬか型”に流して簡単に出来た。

 目的はファスナーの生産である。ねじのファスナーでなく、通称「ジッパー」といわれ、ジーパン、ジャンパーだとか、バッグの口金に用いられている止め金具である。この異形線の線引きを行う職人が一緒にやるとのことで、計画を立て実行した。

 20歳前後の若さで、且つ無一文で、どうしてあのような大きな計画がたてられたのか、今でも分からない。ただ、母は「芳一は子供の頃から工場の絵を画きそのようなことを夢見ていた」と言っていたが、覚えはない。

 日本がすべて無一文の裸になっていた時代だから出来たのではないか―と思っている。

 ともあれ生産を始めたが、このファスナーというものは、テープ状の布に真鍮線より打ち抜いたエレメントといわれる金具を整然と植付け、無理な開閉に対しても従順に応じる構造になっている。

 しかし、土台になるテープの布が粗悪品であったため、エレメントが傾いて絡み合い、動かなくなる。そのためファスナーはすべて不良品となった。

 ボルト・ナットが良くとも、締結体が粗悪品とか樹脂ではすぐにガタガタになり、クレームをつけられるのと同じである。

 結局は母が親戚から借り集めてくれた100円前後の負債を抱えて倒産することとなった。

本紙2004年2月7日付(1922号)掲載。


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