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阪村氏のねじと人生

新入社員と沖縄攻防戦

 阪村が、大阪軽合金株式会社に入社した4月1日にアメリカ軍との沖縄攻防戦が始まった。

 ブランディ海軍少将の率いる米第52機動部隊では2万8千発の艦砲射撃と、3095機からなる空爆を行い、海からは戦艦10隻、巡洋艦9隻、その他177隻より、12センチ砲4万4千825発、ロケット弾2万3千発、臼砲弾2万5千発を打ち込んで、アメリカ軍は上陸してきた。米軍24軍と第三海兵軍団4万2千人である。

 しかしながら、日本軍の潜んでいた陣地は堅固であった。これほどの攻撃をくらっても、アメリカ軍の進撃を食い止めた。米一〇五連隊の戦車30両をなんと22両も破壊した。

 爆雷箱(箱の中に火薬を詰めたもの)を腕に抱えて、戦車のキャタピラめがけての体当たり戦法である。動けなくなったアメリカ軍戦車の天蓋(出入口)を開けて手榴弾投げ込み、破壊する。

 この猛攻で、5日間はアメリカ軍の前進を完全に食い止めたと伝えている。

 九州各基地からは、海軍機93機、陸軍機31機延べ1千機の特攻機が出撃し、アメリカ艦船に大きな損害を与えている。

 沖縄攻防戦の最中に、今回の戦争を作り出し、アメリカを参戦させた1人米国ルーズベルト大統領急死の報が伝えられた。

 沖縄を守る日本軍・第32軍の牛島軍司令官は―
「アメリカ軍が日本本土へ上陸する日を、一日でも遅らせることが、我々の使命である」と、志気をあおった。

 ドイツUボートとの連携により、潜水艦からは軍用の高度な機密図面が届けられ、ジェット戦闘機等新鋭兵器が次々と開発されている(このドイツの図面により名古屋螺子(現・メイラ)では転造盤が完成し、零戦の高精度ねじが量産に入れた―と谷口氏より聞いている)。さらに、ドイツで開発しているブラウン博士の原子力爆弾も“近々に完成する”と、軍の上層部は信じていた。

 5月12日から始まったシュガーローフ山の戦闘では、1日に4回も日米両軍が頂上をめぐって、入れ替わる死闘を演じた。

 米第6海兵師団では、この戦闘だけで2662名が戦死している。米軍飛行場にも乱入し、手流弾を投げ込むなど33機を破壊。この時に、米軍団の総指揮官バッグナー中将(第10軍司令官)は戦死している。

 しかし、艦載規模100機の空母を一週間に一隻建造できるアメリカの豊かな物量には圧倒された。また、盟邦ナチス・ドイツとの戦いが終息した英国軍の戦艦2隻、空母4隻、巡洋艦5隻、駆逐艦15隻が沖縄に投入された。

 この小さな島で、守備軍が米英軍を相手に踏みとどまるにも、勝ち目はまったくなくなった。

 6月11日、海軍司令部の地下壕にて、残存兵約270名と大田司令官は自決した。

 第32軍の牛島司令官も6月23日自決した。
「沖縄県民かく戦えり。県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを」
 一木一草、焦土と化し、東京との無線通信が杜絶しないうちに―と打電して自決している。

 米軍の戦死者1万2千520名と、271万発(沖縄県民1人に5発)を用いての沖縄攻防戦は終わった。

 今日、ブッシュ米大統領が、日本の国土の1・5倍もあるイラク戦争の終結宣言を行った5月の米兵死者139名と比べ、いかに沖縄攻防戦で日本軍、沖縄県民がよく戦ったか。石油で儲けた金を隠して逃げまわるイラクの指揮者に比べ―一木一草焦土と化しても日本本土への米軍上陸を阻止して玉砕自決していった日本軍各司令官、ならびに沖縄県民の健闘はその比ではない。

 改めてその健闘に感謝し同時代を生き抜いた一人として記述した次第である。

暮れゆけば
首里はけうりて月もなく
誰れぞか呼ばん姫ゆりは

 平成15年8月27日午後6時51分、6万年ぶりに地球に大接近した「火星」は、首里城の上で明るく光っていた―。
 
本紙2004年1月7日付(1919号)掲載。


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