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阪村氏のねじと人生

零式艦上戦闘機(ゼロ戦)

 開発のとき大切なのは、設計の固定観念、常識を打ち破るため「できる!」という発想から、前機種の“設計ばらし”を実施し、各自の設計日誌と、クレーム対応のリストアップすることから着手する。

 堀越技師34歳。
 計算班大卒1名、構造班大卒1名。計28名(平均24歳)で、世界一の「零戦」をつくるメンバーがスタートした。

 三千枚の部品図は、堀越技師が全数検図している。特に空力設計で大阪軽合金(住友金属の超々ジュラルミン)の安全係数の見直しにはグラム単位の肉削りをやって対応している。

 設計期間の短縮はパラレル設計ですすめ、各自で進度状況に合わせて編集設計を行った。今日ではCADのため互いが何を画いているのか分からない、いわゆるブラックボックスである。そのため各自の勝手な部品改造が行われ、数値入力ミスを見落とすという大きな欠点がある。また、大学で「製図」を習わずに入社しているため、有限要素法の解析などは抜群だが、製図能力においては昔の工業学校3年生以下のため、検図が一番大切である。

 堀越は各自に進行状況の書き込みをやらせるのではなく、計設日程表に基づき毎日毎日その進度状況を聞き、設計図を見て歩き、記入している。停滞設計は取り上げて、目標納期に分散しての割付を実行して、見事な開発設計をやり遂げている。

 山本元帥の言葉にある「やって見せて、やらせて見る」の事例である。

 機銃九九式20ミリ二丁、九七式7・7ミリ二丁、30キロ爆弾2個を持ち、三千メートルまで約3分の上昇力。高度四千メートルで時速500キロをだす。

 これがアメリカ軍が「ゼロと格闘戦を行ってはいけない」と通達を出すほど恐れていた「零戦」である。その“零戦の秘密”が、ちょっとした事故を見捨てていたため、すっかり米軍に盗まれた。

 1942年7月9日、アクタン島の沼地に不時着した零戦を、米軍は即回収して、8月12日サンディエゴの海軍航空基地に運ばせ厳重な警備の中、分解作業が24時間秘密裏に行われた。

 こうして、米軍とグラマン社の技術陣は零戦の秘密を知り尽くし、ライバルとなる「ヘルキャット」が生まれた。

 阪村機械製作所がある八幡に“飛行機神社”があるが、世界ではじめて日本は飛行機を作ったのが、エンジンでライト兄弟の「フライヤー1号」に負けた。零戦も、ヘルキャットの強力なエンジン出力を背景に、力でねじ臥せられた。

 アメリカのねじ産業も例にもれず、1798年にデビットが木ねじの特許を得てから、1839年にコネチカットでミカー・ラッグがボルトの頭成形ハンマーをつくるなど、手作りの時代で出発したが、1876年のニューヨーク万博では、当時世界の先進国だったドイツのねじ業者が、アメリカ・タウンゼント社の展示品を見て―
「実用的な新しいアイデアの数々、特殊な用途に対する驚くべき聡明な適用、部品加工の精密さ、概観における優雅さ、どれも素晴らしい」
と、賛辞を述べると共に、若いアメリカが技術の面で先進国ヨーロッパを追い抜いている状況を見て愕然とした―と述べている。

 阪村も、心斎橋で撃ち落されたB―29の残骸を拾った中に、プラスねじ及びナイロンナットと同じ構造でもってファイバーを埋設した「ゆるみ止めナット」を発見した。(ナイロンナットがまだ発明されていなかった)

 アメリカの新しいねじに対面し、その優れた技術に驚いた。どうして、無数の金属のリベット頭にテーパー状の十字穴が瞬時に加工を施せるのか―
1万メートルの上空を飛来してくるアメリカの爆撃機を見て、すべての面で反撃してくるアメリカ技術力の底力をヒシヒシと感じたのである。

 すべての「強い」「弱い」というのは、一瞬一瞬を表しているに過ぎない。油断するとすぐに追い抜かれてしまう。これは、今も昔も同じである。
 
本紙2004年1月1日付(1918号)掲載。


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