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阪村氏のねじと人生

大阪軽合金(株)

 17歳で堺工業学校を卒業した阪村は、軍需工場への就職割り当てにより、堺市にある「大阪軽合金株式会社」へ入社した。企画技術課で資格は「技手」であった。課長は大阪帝国大学を卒業した村田で、資格は「技師」であった。

 学歴による差別は徹底しており、軍隊に入っても大卒は「見習士官」で入隊できる。

 初任給は45円であった。月給袋を母に渡すと、母は涙を流して喜んでくれた。現金収入のない阪村家にとって、貴重な45円だったのか、それとも“親族の反対を押し切って工業学校に学ばせた息子の初月給に対する感激”か、神棚に供え、燈明を上げて、拝んでいた。

 「大阪軽合金」は零戦に用いるジュラルミンを生産していた。

 ジュラルミンは、1906年、ドイツ人ウィルムが発明したアルミ合金で、銅5%、マグネシウム0・5%の2017に相当し、時間と共に強度が増すことが発見された。つまり、時効硬化現象で、この合金を初めて生産したジュレーン工場の名を取ってジュラルミンと名付けられた。

 その後、日本でマグネシウムの量を増やし、1940年超々ジュラルミンが開発され、零戦の主翼部に使用された。これにより総重量においてアメリカ戦闘機より1000キログラム以上も軽くなった。車も車体の軽量化に挑戦しているが、空を飛ぶ航空機にとっては一番大切なことである。

 1903年、ライト兄弟が初めて空を飛んだ「フライヤー1号」の8・8キログラムのエンジンケースは既にアルミニウムを採用していた。「零戦(ゼロ戦)」は日本が生んだ世界一の名機である。中国戦線に初めて登場したこの名機は、中国軍のソ連製戦闘機を圧倒した。このとき、米国義勇航空隊のアーノルド中将は「日本軍は独創的な戦闘機を開発した」との情報を米国に送っている。

 「零戦」とは、零式艦上戦闘機の略にて、戦闘中は“ゼロファイター”と呼ばれ、南太平洋の空を暴れまわっていた。設計主任は三菱重工業名古屋航空機製作所の堀越二郎(戦後、防衛大学教授)だった。

 当時、設計段階での海軍の要求は過酷であった。設計要求書には、速度・航続力・空戦能力・上昇力等について「みんな必要だ」という事である。

 基本設計でのキーポイントは「アンノンファクターの処理」である。パーツフォーマーの開発でもアンノンファクターを10%位にすると、営業からは「魅力の無いフォーマー」と悪評を蒙る。
 そうかといって、アンノンファクターを50%も取り入れると、出来ると思っていたのが必ずといってよいほど失敗する。

 海軍の発注は、二社競合方式であったから、中島飛行機との両航空機製作所はヨーイドンで開発競争へ乗り出したのである。台湾と同じ価格でもって世界一のフォーマーをつくれ、といわれているのと同じであるが、機の材質かメカか、堀越は総合技術力で解決できると思った。

 堀越二郎が命をかけてつくりあげた基本設計に

 ―短納期化の手順の中にある“忠”(速度アップ)ならんとすれば“孝”(航続距離)ならず―

 とあるが、これを「忠も孝も両立させろ!」という酷な要求を解決したのは“超々ジュラルミン”たるアルミ合金の開発である。
翼荷重が小さく、卓越した旋回運動性能を発揮する。それこそ「1千馬力の発動機から性能の一滴でも余計に引出せ」という海軍の至上命令に応えられたのは“材料革命”であったといえる。

 アメリカは「零戦」の残骸を分析し、極秘にコピーして、7075の超アルミニウム合金(クロム0・3%、亜鉛5・6%追加)を開発した。F4F(ワイルドキャット)にて、空中戦のシミュレーションを行い実用化に成功している。

 現在、サカムラでは亜熱間フォーマーにて、材料革命といわれる850度をキープした特殊チタン合金鋼にて遅れ破壊が絶対発生しない「15Tコンロットボルト」の開発に取り込んでいる。

 研究協会発は、常に継続して行い続けなければならない―。
 
本紙2003年12月17日付(1917号)掲載。


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