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阪村氏のねじと人生

ねじと明治

 「ねじのない文化」の江戸時代、三百年間に日本の文化は、一体どうなっていたのかと心配したが、世界に冠たる文化が育っていた。

 ねじを量産していた堺では、千利休による茶道をはじめ、町人が台頭した元禄文化がねじをネジ伏せて「ねじのない文化」に花を開かせていた。

 即ち―俳諧の松尾芭蕉、浮世草子の伊原西鶴、ヨーロッパ絵師の手本となっている「浮世絵」の多色刷り技法を発明した歌麿・写楽・北斎・広重がそれぞれ名作を創出している。

 結論は、好奇心と時代の変化に順応していく速さである。鍬・刀・鉄砲・煙草包丁と鍛造商品の変化を追ってきた堺鍛冶が、明治に入って取り上げた産業が「自転車」である。現在でも「シマノ」は、自転車パーツでは世界一である。

 文化の先駆けとなったこのねじは大きく分けて、標準のねじと自転車ねじ、ミシンねじ、管用ねじ、それに百年間世界標準になっているエジソンねじ(電球の口金丸ねじ)があるが、自転車用スポーク一つ取り上げても、一台の自転車の両輪に用いるニップル(スポークを締結するナット)と共に、沢山のねじを必要とする。

 自転車は、1818年にドイツのドライスが発明した。1861年にはフランスのミショーがペダル式を、更に1888年ダンロップが空気入りタイヤを発明した。その後(1896年)フリーホイールが導入され、現在の自転車の基本が完成している。1903年、初めて飛行機を飛ばしたライト兄弟も自転車の会社で働いて開発しており、自転車、飛行機の生みの親でもあるわけである。

 この自転車のパンクしたタイヤを修理している間に、タバコ買いを行って貯めた「タバコ賃」で故松下幸之助氏が松下電器産業、松下電工等のグループ企業をつくっている。

 明治3年、堺の北川清吉が一番早くに自転車に目をつけて輸入し、友人と双輪商会という貸し自転車屋を始めた。これが大変な人気となり、借りるだけでなく、購入者も増えた。当然修理も必要となり、部分も含めて自転車は堺鍛冶屋にとっては、明治、大正、昭和の三代に亘る主力産業となった。

 そのため、ねじをつくる機械メーカーとして、眞島工作所が明治31年(1898)にスポークをつくる直線切断機を作って、その先駆けとなっている。昭和3年(1928)には、その眞島工作所は大阪市電の車軸と歯車を用いて作ったヘッダーを寺内製作所に納めている。ローリングの板転造盤についても同時期に納めており、更に多段式ヘッダー(6段フォーマー)は海軍の命令により、昭和12年(1937)に㈱名古屋螺子製作所(現・メイラ)にて開発に入っている。

 ゼロ式戦闘機等の航空機ボルトは合金鋼を用いるため2度打ちヘッダーでは無理だと判断し、6段フォーマーの開発となり、眞島工作所が三台納めている(平成4年10月27日、日本ねじ研究協会)。

 ヘッダーはシングルヘッダー(1度打ち)が明治15年頃に輸入されたと聞いているが、コピーしたヘッダーにて自転車のニップルを製造したとみられる。ニップルは丸頭で軸部を四角に絞ってあるため、ヘッダー加工したと思うが文献がない。

 いずれにしても、堺の鉄砲(鉄のパイプ)をつくる鍛造技術と、尾栓をつくるねじ製造技術が、軽量化の中空成形を求める自転車の車体成形になくてはならず、一大産業へと発展した。

 このような時代背景の中で阪村芳一は、農家である阪村家の長男として生まれた。農業は土地と水が命である。その土地が没収され、父は流通業に転向したが、芳一は少年時代は牛の世話が日課で、牛の手入れ・よく食べる牛に与える餌の面倒・滝の如く噴出する小便牛糞の掃除等を毎日行っていた。

 そのため、子供心ながら機械で動く自動車への憧れは強烈であった。また、単位当り面積での生産性は、機械は農業に比べ百倍以上の生産性が期待でき、たくさんの人達の職場を提供できる。

 そんな少年に、決定的な夢を与えたのは「電気」であった。

本紙2003年11月7日付(1913号)掲載。


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