村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」133-日本産業革命の地・横須賀造船所―
小栗忠順伝 桓武平氏小栗から清和源氏小栗に 2
小栗家の初代とされる松平太郎左衛門信吉までの略系図は下記の通り。
清和天皇…(略)…新田義重…(略)…松平太郎左衛門親氏・徳阿弥・徳川家
の祖といわれる―松平太郎左衛門泰親―(3代略)―松平太郎左衛門信吉・小
栗家初代―二代・松平忠吉―三代・小栗吉忠―四代・忠政―五代・正信
三河国岩津(いわづ)城主であるが、病気となったので、早くに松平家の承継者として
縁戚の松平右京亮親忠の嫡子親長を養子に迎え岩津太郎親長として育てた。
のちに信吉は三河国筒(つつ)針(はり)(岡崎市筒針町)の城主小栗左京之進正重の妹を妻に
迎え、男子をもうけたので一郎忠吉と名づけ育てたが、七年後に信吉は戦死す
る。親長としては養親の信吉が亡くなると、義弟にあたる一郎忠吉が信吉の嫡
子であるから自らの地位が不安定になる。次第に養嗣子親長と信吉妻の折り合
いが悪くなったので、心配した小栗左京進正重は妹と一郎忠吉の母子を岩津城
から筒針城に引き取った。
小栗家二代目・松平二右衛門忠吉 7歳で父松平信吉と死別した松平一郎忠
吉は、筒針城の小栗家で育てられ、成長すると松平遠江守の妹を妻としたが、
妻は大永五年(1525)男児を生んで死去した。男児は伯父の小栗正重が庄次郎
吉忠と名付け養育した。忠吉は家康の祖父清康に仕え、せがれ庄次郎をまだ幼
少の清康の子廣忠の相手役として出仕させた。のちに忠吉は京都の誓願寺住持
が松平の一族だったことから、誓願寺へ出向いたり、清康、廣忠に仕えたり
して天文七年(1538)75歳で死去した。
小栗家三代目・小栗二衛門尉吉忠 幼名庄次郎。初め吉政とも。小栗正重の
孫に男子がいなかったのか、あるいは病死したものか、松平吉政が祖母方の
小栗姓となって小栗家当主を継いでいる。松平は清和源氏、小栗は桓武平氏
だが、岩津松平家は親長以後に没落・滅亡したらしい。自分はその岩津松平
の嫡子系であることにこだわったのか、ここで「清和源氏の小栗家」が誕生
した。廣忠の小姓を務め廣忠から一字を賜り吉政から吉忠と改名している。
本紙2701号(2025年10月27日付)掲載
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