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村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」51-日本産業革命の地・横須賀造船所―

買船派と造船派

 幕末の蒸気船の歴史を振り返ると、嘉永七年(一八五四)に再来航したペリーが去ると、幕府は安政二年(一八五五)にオランダから献上された観光丸はじめ、オランダ製の咸臨丸、朝陽丸、イギリスから寄贈された蟠龍丸などの洋式艦船を所有するようになっていた。

 これに並行してサンフランシスコのメーア島での咸臨丸修理の体験をいかした航海長小野友五郎の建議を入れ、幕府は日本人だけで設計建造した初めての小型蒸気軍艦「千代田形」を文久三年(一八六三)に進水させている。小野はさらに同じ艦を三十隻建造して江戸・大坂湾に配備する構想を持っていた。

 この当時、洋式船の入手については外国から買えばいいという買船派と、わが国で造船すべきという造船派の論争があった。洋式艦船に接しはじめのころは造船派が多かったが、洋式造船を日本で行なうのは大変な施設と資金、熟練した技術が必要なことがわかって、しだいに買船派が主流になっていた。

 しかし買った船はいずれ壊れる。幕末当時の日本では小さな修理は横浜などに寄港した外国船に依頼して修理してもらっていたが、大きな修理になると上海やオランダ領バタビア(インドネシアのジャカルタ)まで曳いて運び、修理していた。経費も時間もかかる上、もともと外国に造ってもらった船は古い部材が使われていたり、手抜きされていたりで、故障をしやすかった。

 忠順は遣米使節の旅から帰国すると造船所建設を模索し、折あるごとに周囲にそれを説いていた。忠順が外国奉行を免じられた後、文久二年六月から初めての勘定奉行勝手方を務めていたころ、勝海舟は造船所建設に反対して「軍艦は数年で造れるがそれで海軍を編成しても、海軍を運用する人材育成にイギリスの例では三百年かかっている。日本では500年かかるから、まずそれを先にすべき」(「海舟日記」文久二年八月二十日)と語っている。勝の「海軍500年説」という。この反対の前提に、忠順の造船所建設による海軍の構想があった。





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