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村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」90 -日本産業革命の地・横須賀造船所―

「横須賀明細一覧図」

水溜 大きな造船所施設ができればきちんとした水道が必要になる。初め「汐入の府当ケ谷ふとうがやとの溜め池から引いた。・・・水道管は江戸時代同様の木製箱型のもの」(山本詔一『ヨコスカ開国物語』)だったという。

しかし造船所の稼働工場が増えると水量が不足し、さらに大量の水源が必要になった。ヴェルニーは造船所から約7キロ離れた走水の伊勢町に多量の湧き水あることを知り、建築課長ジュエットの指揮で1874明治7年に工事を開始し
た。

途中走水から馬堀へ出る山地は水道トンネルを開けて明治1876明治9年12月完成となり、造船所まで高低差10mを、土管を埋設し自然流下で水を引くことが出来た。途中の水道トンネルはほかに三春町の春日神社脇、田戸の観念寺、深田台瀧本寺の山裾、計4箇所に掘られた。届いた水は「一覧図」の製綱所の先端にある時計台の右に「水溜」があり、長さ60m、幅12m、深さ2.6mレンガ造りの水槽で受けて溜め、そこから構内に分けている。


水道が完成した時、ヴェルニーは前年12月で解雇となり、明治9年初めに帰国したから完成を見ることはなかった。たぶん手紙で完成を知って喜び安心したことだろう。

 走水トンネルはその後観音崎一帯を東京防衛の要衝とする必要から、1895明治28年6月から人馬も通行できるよう1年がかりで掘って拡張した。それまでの
長い走水トンネルは途中で曲がっていて、曲がり角に明かり窓を開けていた、拡張の際に窓部分でトンネルを二つに分けた。造船所で始まった定時労働制は朝7時までに出勤で、15分遅れると一日欠勤扱いになる。職工たちは、冬は暗いうちに弁当と提灯を持って歩き出し、走水から小原台の山越えで馬堀へ出て途中で明るくなると知り合いの家に提灯を預ける。帰りに提灯を受け取り、また明かりをつけて帰宅していた。人馬が通れる水道トンネルが完成すると、山越えしなくてすむと喜んだ(地域学習資料『走水』走水小学校)。

本紙2575号(2022年3月27日付)掲載





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