現在位置: HOME > コラム > 村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」 > 記事



村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」76 -日本産業革命の地・横須賀造船所―

幕末の洋学者 武田斐三郎

 このところしきりに名が出る武田斐三郎は、小栗忠順と同年の1827文政十年、伊予大洲藩士の家に生まれ、後年成(しげ)章(あきら)とも名乗る。蘭学を緒方洪庵、伊東玄朴、佐久間象山、箕作玄甫に学び航海、築城、造兵に精通する学者として頭角を現し、旗本格で幕臣に取り立てられた。1854安政元年堀織部正と村垣範正の蝦夷地出張と樺太調査に榎本武揚とともに随行。堀の代理で箱館に来航したペリーとの交渉をしている。

 箱館五稜郭を7年がかりで設計築造(1864元治元年竣功)したことで知られ、いまも五稜郭公園に入るとすぐに「武田斐三郎先生顕彰碑」のレリーフが目につく。顔や頭がピカピカに光っているのは、なでると武田にあやかって賢くなれると観光客が手で触れるため。

 幕末当時、彼は箱館に設けられた洋式学問所「諸術調所(しょじゅつしらべどころ)」教授としてそれほど有名で、身分に隔てなく成績で評価することが評判となって向学心旺盛な若者が日本中から箱館に集まり、山尾庸三、前島密、井上勝、蛯子末次郎、水野行敏、今井兼輔らも学んでいる。

 当時の向学心に燃える若者がこういう情報を得ると、はるばる箱館まで学びに行く熱意と行動力には敬服させられる。上州安中藩士新島襄も武田に憧れ箱館をめざしたが、武田が小栗に江戸へ呼ばれて数日の差ですれ違いとなり、落胆ののちニコライ司祭の助力を得てアメリカへ密航を果たす。すれ違いがなかったら、同志社大学は存在しなかったかもしれないから人生はわからない。

 小栗は江戸へ招いた武田が開成所教授となると、さらに関口大砲製造所頭取に任命した。そして関口製造所の業務範囲を超え、大砲鋳造を含む幕府の兵器生産体制の抜本的な構造改革・刷新と、装備の近代化プロジェクト全般の技術関連問題解決に彼が深く関与できるようにし、小栗の最も信頼できるブレーンとして彼の持つ学識、手腕が最大限に発揮できるよう配慮した。

本紙2533号(2021年1月27日付)掲載





バックナンバー

購読のご案内

取材依頼・プレスリリース

注目のニュース
最新の産業ニュース
写真ニュース

最新の写真30件を表示する