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村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」75 -日本産業革命の地・横須賀造船所―

滝野川大砲製造所(4)
さらに、懸案の伊豆韮山の反射炉の修復は、滝野川反射炉が出来上がれば間に合うので韮山は廃止とし、錐台、水車、金具類、銑鉄、石炭、諸器械などの設備も滝野川へ移転するよう手配されたい、と進達している。(「陸軍歴史巻七」『勝海舟全集』))
 こうして千川上水は拡張工事が行われ、1865慶応元年九月から二ヶ月半をかけて滝野川へ開削された。
同じころに忠順の提案した横須賀製鉄所の建設も具体化してきているから、忠順は多忙の中で日本近代化の方策をあちこちに仕掛け、具体的に進めていたことがわかる。
滝野川に関しては、この後1867慶応三年にやはり武田斐三郎とともに火薬製造所建設を提議している。
「日本国に於て西洋式火薬製造所を創立せんと企てし者慶応卯三年三月小栗上野介並武田斐三郎の両君にして、其位置は王子滝野川に撰定す」(「東京市史稿」四七)
滝野川反射炉を中心とした大砲製造所は建設が進められた。これが完成して大砲製造に至ったかとなると史実があいまいで、維新動乱の中でわずかに反射炉が完成し、1866慶応二年二月に反射炉の工事完成を祝って最初の鉄湯で記念の鉄製天水桶を造り稲荷社に奉納した痕跡があるものの、その後どれほどの大砲を製造したということは分かっていない。
ともかく、明治以後この地域には醸造研究所、農業技術研究所、農業総合研究所、大蔵省印刷局滝野川工場、同王子工場、渋沢栄一の提唱で造られた抄紙会社(王子製紙の前身)など近代工業が導入され一大工業地帯となっていったのは、小栗の大砲製造所建設や火薬製造所建設の提議で千川上水の取入口拡張、石神井川の掘鑿による舟運が盛んになったことが契機となっている。

本紙2530号(2020年12月27日付)掲載





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