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村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」73 -日本産業革命の地・横須賀造船所―

滝野川大砲製造所(2)

 同時にこれまで大砲製作をリードしてきた江川英敏一門のオランダ流を排し、代わって新進の洋学者武田斐三郎、友平栄などの仏式にまかせることとした。そして反射炉を建設して鉄の大砲を大量に生産するにはもっとふさわしい場所を見立てる必要が生じてきた。こういうとき機敏な行動力を発揮する忠順はすでに候補地のめどをつけ実地検分もしていて、七月に滝野川村(現・酒類総合研究所東京事務所)に千川上水を引き込んで水車を設置し、反射炉錐台等を築けば永久に使える場所と、と報告を出している。

 「滝野川村地内に反射炉錐台等を建設すれば、水利の便は当然よろしく、永く使える場所と見立てられるので、先ず御勘定方支配向きの役人を派遣して実地見分し、分間測量等をさせましたところ、同村耕地の掘割に千川上水を引き入れ水車仕掛けにすれば適切な場所となるはず…」(「陸軍歴史巻七」『勝海舟全集』・意訳)

 この報告を受け、1864元治元年八月十五日、幕府から小栗忠順にあらためて「大小砲鋳立て御用向き、すべて重立(おもだ)ち取り扱わるべく候事」(「陸軍歴史」巻七)が命じられた。関口錐入り場に代わる場所、反射炉建設に適した滝野川村に反射炉を建設し、関口の施設もそっくり移して新たな大小砲製造所の建設を「重立ち」で中心となって手配することが任務となった。

 しかしこのことは簡単に決められない。肝心の動力源を水力に頼る以上、その充分な水量確保が必要になる。千川上水の水源は玉川上水から保谷で分水して流れているので、江戸城や丸ノ内の大名屋敷、日本橋をうるおす玉川上水が優先され、千川上水への水量は厳しく制限されてきた。それを踏まえて、小栗は勘定奉行立田主水正を通じ玉川上水を管轄とする作事奉行へ、制限されている千川上水への取水口を全開とする「圦(いり)樋(どい)皆(みな)明(あけ)」を依頼したところ、「千川へ皆明けにしたら江戸城内や江戸の町内に支障が起こるから、新規のそういう事業はとても認められない」という返事があった。これでは仕事が進まない。

本紙2524号(2020年10月27日付)掲載





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