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村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」25-日本初の株式会社―

 小布施の”船会社” (2)―鴻山と小栗忠順―


 いかに豪商とはいえ一万両の献金はたいへんな額で、鴻山は三ケ年の分納をしてこれに協力する請書を差し出し、まずその場で五千両を納め、後納分を合わせて計八千両余り納めたところで明治維新となっている。幕府の施策にこれ程肩入れする姿勢がどこから来るのかを考えると、その背景に小栗忠順との交流が浮かび上がってくる。

 具体的な小栗との交流は、募金に際してとった幕府役人の態度が傲慢であることを鴻山にたしなめられ、江戸に戻った役人が高井の人物を忠順に報告したので、忠順が興味をもって招いたことから始まった。

 鴻山の立場からいえば、江戸遊学中に学んだ師佐藤一斎は、忠順の漢学の師安積(あさか)艮斎(ごんさい)の師でもあり、艮斎が早くから商船隊による外国との通商貿易を主張していることもあって、幕政改革に奔走する小栗の存在は、鎖国攘夷から富国開国へと意見を変えた鴻山の考えと合致して、早くに知っていたはずで、この幕府を支えて公武一体・挙国一致の国づくりを果たそうとの意を強くしていたものと思われる。

 献金を約束した後、鴻山は「幕政改革意見書」を上申し、「鎖国は沈腐なるのみならず、海外の信用を失墜するものなり」とし、「大艦大砲の製作を奨励し、外国貿易の利潤を確認し、其通商貿易の道徳に合し、国際は信義を第一とすべし……」と説いていることも、その姿勢のあらわれといえよう。

 こうして江戸駿河台の小栗邸へ出入りして時世を語り、国のあるべき姿を模索するうちに慶応三年、鴻山は小栗上野介の示唆を得て北信越の富豪の資本を合わせて船会社を興し、貿易振興によって国力を富ませる「船会社設立案」を松代藩へ上申するにいたった。

本紙2380号(2016年10月27日付)掲載





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