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村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」6-遣米使節小栗忠順―

造船所から近代化スタート
 
ワシントン海軍造船所のように、蒸気機関を動力源として鉄製品、木工製品、繊維製品がすべて補い合って製品化されて行く総合工場(当時こういう語はなかったが)としての造船所の施設を日本に導入すれば、日本は近代化のスタートを切れるのではないか、という具体的な構図が小栗の脳裏に浮かんだ。

 競技にたとえると、それは「近代化」という名の国際レースで、欧米諸国はすでに走りだしていて背中も見えないほど先を走っている。しかし日本は走りたくてもスタートラインに立てない。レースに参加する支度ができていないのだ。その支度として造船所=総合工場を導入すればスタートラインに立つことができる!これがワシントン海軍造船所見学を終えた小栗の直感であったろう。

 ではその造船所をどうやって、総経費いくらで、何年かかって、どの国の援助を受けて、どこに、誰の指導で立ち上げるか…が、忠順の次の課題となった。
課題を抱えて帰国した小栗忠順が帰国後八年間に数々の日本近代化を手がけ、「明治の父」(司馬遼太郎『明治という国家』)とまで評価される業績を残した原点は、数え34歳で渡米し日米の差を強烈に感じた万延元年遣米使節の見聞体験にある。

 ところが、この遣米使節の歴史じたいが、国民にほとんど知られていない。たとえば、東大名誉教授石井寛治著『日本の産業革命』(講談社学術文庫)で、欧米の「巨大な規模と精緻な技術に驚嘆した」例として引用している工場見学記は、明治五年(1872)岩倉具視米欧使節団の日記で、それより12年前の遣米使節のアメリカにおける工場見学記録は顧みられていない。

 なぜ知られていないか。遣米使節が帰国する前に大老井伊直弼は桜田門外で暗殺され国内は攘夷思想が蔓延していて、上陸した築地の海軍操練所にろくな出迎えもなかったほどであるが、なんといっても咸臨丸によって遣米使節の話が現在でも隠されていることが大きい。

本紙2323号(2015年3月27日付)掲載





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