村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」66-日本産業革命の地・横須賀造船所―
横須賀「製鉄所」は“製鉄しない”
横須賀造船所のはじめの名称は「横須賀製鉄所」だが、横須賀に鉄山はないから鉄鉱石を溶解して鉄を取り出す現在の意味の製鉄はしていない。すでに製鉄された銑鉄の塊を買い込んで溶解しさまざまな「鉄製品を製する所」という意味で、船の蒸気機関はじめボイラー、パイプ、歯車、シャフトから大小砲の銃器部品、砲弾、部品を結び付けるネジまであらゆる鉄製品を造っていた。ワシントンで見学した海軍造船所と同じ、総合工場である。明治四年に「横須賀造船所」と名称が変わり、製鉄所は現在の意味の「鉄鉱石から鉄を製する所」となった。だから明治四年までの「製鉄所」は要注意の歴史用語と言える。
大砲製造・湯島から関口錐入れ場へ
幕末期、強力な大砲を備えた外国船が日本近海にしきりに出没し、天保十三年(1842)のアヘン戦争による清国の敗北が伝えられると、外国から言いがかりをつけられないよう文政八年(1825)に発していた「無二念打払令」(外国船は無条件で打払うべし)を「薪水給与令」に改め、外国船に対して通商は拒否するが緊急の薪水食料の供給だけは行なうソフト路線に改めた。
必然的に国防意識の高揚から強力な大砲鋳造の必要性を痛感したのが、長崎の警備を担当していた佐賀藩だった。寛永年間から200年近く福岡藩と交替で警備を当てられ、常に最先端の西洋文明の進展や世界の情勢変化に接していたため、十代藩主に鍋島直正がつくと積極的に西洋文明の導入による藩の近代化を図り、天保六年(1835)の青銅砲製造から嘉永三年(1850)には反射炉により鉄製大砲としては日本最初の鋳造に成功した。江戸に呼ばれた高島秋帆が徳丸原(板橋区高島平)で西洋砲術の優秀さを実演してから、8年たっていた。
その後嘉永六年(1853)にペリー来航があって、幕府は江戸湾の警備強化のため、江戸湾海防の実務責任者となった江川太郎左衛門(英龍)に品川に台場を築くことと、反射炉の建造を許可し、七月にとりあえず佐賀藩に200門もの大砲建造を発注した。(つづく)
本紙2503号(2020年3月27日付)掲載
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