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村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」83 -日本産業革命の地・横須賀造船所―

「横須賀明細一覧図」 

 オープンな造船所 どうやって横須賀へ来るか。1873明治5年に新橋-横浜間に汽車が開通したから、とりあえず横浜まで歩かずに来られる。
横浜から先はどうするか。一覧図右下のカコミ「当地より各所への里程」に
「横濱へ七里廿七丁 毎日五回ずつ蒸気の出船あり」と横浜~横須賀へ毎日5回出ている定期船で、三浦半島を歩かずに来られる。最新の「蒸気の出船」を強調してイメージアップをねらっているのがほほえましい。

 この頃流行した全国各地の『〇〇繁盛記』によれば横須賀は、「毎(つね)に英米の商船、露仏の鉄艦、大となく小となく修理工作を依頼して踵(きびす)を接す。誠に東洋一の工場と謂(いい)つべし」(『横須賀繁盛記』明治21年)という状況で、小栗上野介が「外国から買った船もいずれ修理が必要になる、造れなければ修理は出来ない」と造船所建設を強力に主張した成果がまさに発揮され、英米露仏の商船、軍艦が修理の順番を待って並び、その修理費が造船所の経営に大きく貢献していた。明治9年、首長ヴェルニーが解雇され帰国するに際し提出した清算書では、建設費を十分に上回る収入が報告されている。

 警戒の厳しい「軍港」イメージは、外国船や一般船舶の修理が発達してきた民間造船所へ任され、横須賀造船所を海軍専用の建造・修理施設とした明治25年ごろからのこと。さらに日露戦争後の明治40年代から各国とも「大艦巨砲主義」による軍拡競争の時代に入り、昭和20年敗戦まで特に厳しく機密保護が打ち出され「軍港都市」のイメージが強くなった。だからといって、幕末の横須賀製鉄所建設から明治20年代までの横須賀造船所を軍港イコール秘密基地のイメージで見てはいけない。この一覧図で軍港以前ののどかな観光地横須賀を見ると、外国船の修理も引き受け、造船作業や外国船を見物に観光客がやって来る、国民に愛される「産業革命の地・横須賀」であったと読めてくる。(つづく)

本紙2554号(2021年8月27日付)掲載





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