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村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」69 -日本産業革命の地・横須賀造船所―

 ライフリング

 幕府は関口錐入場に反射炉を設け、材質の向上と均一化で鉄製大砲の生産に入ろうとしていたが、これまでも人手と経費を要するばかりで、当初のもくろみ通りに機能せず効率が悪かった。それを打開しようと、小栗は十二月に銃砲製造の責任者に任ぜられると、製造所頭取に武田斐三郎を起用し、製造技術者として友平栄を登用した。

 動力源が蒸気機関でなく、水力に頼るしかない日本の工業生産の現実はじれったかったことだろう。湯島の設備も一部は解体されて舟で運びこまれ、関口錐入れ場はこの年12月末に出来上がった。

 次に必要なのは原料の銅や錫を溶かし白土で作った鉄の鋳型に流し込む作業場で、原料の溶解・鋳造は日本古来のたたら製鉄法の炉と甑(こしき)によって行われた。

 出来た銅の棒をくりぬいて砲身内に螺旋条(ライフリング)の溝を切る施条機は文久二年(1862)十二月にオランダに発注し、輸入されると苦心して船で神田川をさかのぼって運ばれ、据え付けられた。こうして大砲製作が始まるわけだが、動力が蒸気機関でなく水力のため十分な力が出ない。砲身となる銅棒を水車で回転させ、ドリルを当てて一日一晩削っても30センチしか削れない。それでも苦心工夫して、とりあえず鉄製砲は後回しに青銅製30ポンド砲などが製作されるようになった。
 
 リアリスト小栗忠順

 2年前、小栗はワシントン海軍造船所で見学した際に大砲についても関心を示して細かな質問をし、その時造船所の担当号令官が留守だったのか、二日後の四月七日夜にわざわざホテルへ訪ねてきて、詳しく説明している。
それによると、五日に監察小栗がした銅製砲の銅と錫の混合比についての質問だが、米国では銅九斤に錫を一斤とし、銅砲の場合鋳込んだ翌日に型から出し、鉄製大砲の場合は鋳型に七日間おいて出すと説明してくれた。

本紙2512号(2020年6月27日付)掲載





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