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村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」68-日本産業革命の地・横須賀造船所―

 大砲製造・湯島から関口錐入れ場へ(つづき)

 この計画は江戸町民の水道水を上流で使うということだから、各方面に了解を得るのに手間どり、翌文久二年十月に水車のための水樋埋設が行われている。関口水道町へ大砲錐(きり)入れ水車御取建につき、江戸川の北側神田用水引き入れ口から水路を掘り割り、(水路の)樋類を伏せる工事をするので、川添屋敷際から関口橋まで、明日(文久二年十月二十四日)より往来を差し止めるとのことが、板倉周防守勝静殿より通達がありましたので、ご報告します。
      
十月二十四日 当番御目付
   小栗豊後守殿         (「東京市史稿」市街篇第四十七・意訳)
 小栗忠順はこのとき町奉行だったので、届を受ける側だった。
大砲製作の工作歴をまとめると、
・材質が―銅製から―丈夫な鉄製へ、
・製法が―鋳型に流した筒状から―太く丸い鉄棒の芯を削って筒状に
・砲身の筒内が―滑らかな滑腔砲から螺旋状に切り込む溝(ライフリング)で飛距離と命中率の向上を図る、と進化してきている。

 西洋諸国はすでに鉄製大砲の時代に入っている。鉄は青銅よりも強いから砲身を長くして射程距離を伸ばせる。日本は幕末に本腰を入れて材質を銅から鉄製に変えようとし、ライフル砲にも取り組む段階だったが、まだ青銅砲中心でしかも砲身材質に問題があった。なるべく不純物を含まない純鉄に近いものをしかも大量に作ろうとすると日本古来のタタラ製鉄法では限度があって、これはやはり反射炉方式採用になる。
 
 1862文久二年十二月一日、幕府は小栗忠順の町奉行を免じて歩兵奉行と勘定奉行(勝手方)兼任とし、大砲鋳造の全権を委ねて軍備の拡充をはかることとなった。アメリカでの見聞をもとに近代化を主張する小栗忠順の手腕が期待されたことになる。

本紙2509号(2020年5月27日付)掲載





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