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村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」58-日本産業革命の地・横須賀造船所―

 横須賀村に決定

 上海から戻ったジンソライが点検すると、全体が小規模でドックを造り本格的に造船を行うのは無理だから、これをまず横浜に据え来航する外国船の小規模な修理に当てたら便利だ。その間にもっと大規模な造船所を造れば日本人が横浜の作業で学んだ技術が活かされ、造船所事業もスムーズにスタートできるだろうと提案された。
小栗は少し落胆したことだろうが、とりあえず提案に従ってまず横浜の湿地(石川町)を埋め立ててその機械を据え付けて横浜製鉄所とし、さらに規模の大きな造船所を建設することを幕閣に建議した。小栗の働きかけによってついに1864元治元年十一月十日、幕閣の老中水野和泉守忠精、阿部豊後守らは本格的な造船所建設を決定した。

 1864元治元年十一月二十六日に勘定奉行小栗忠順・栗本鋤雲が木下謹吾、浅野氏祐、ロッシュ、ジョーライスらとともに順動丸で江戸湾を視察した。はじめに幕府が考えていた候補地長浦湾をフランス側が測量したところ、水深が不足しているので難色を示した。それではと隣の横須賀湾に移って計測したところこちらの方が造船所建設の条件に合致していることから横須賀に決定した。もし長浦湾の水深が充分ではじめの計画通りになっていれば長浦造船所となり、人口がいっきに増えてたちまち長浦市ができ、隣の一漁村横須賀村はいまごろ長浦市横須賀町になっていただろう。

 このころ横須賀村は戸数二十数戸の漁民が住む小さな漁村だった。その横須賀湾が選ばれた好条件とは、
1 水深が20メートル以上ある…棒高跳びのマットレスをイメージするとわかりやすい。進水式は船を海に投げ込むのと同じだから、海底が浅いとそのショックが戻って船が覆る。横須賀湾は今でも米海軍の原子力空母が横付けできる深さがある。

本紙2479号(2019年7月27日付)掲載





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