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村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」54-日本産業革命の地・横須賀造船所―

 翔鶴丸の修理(続き)

 ロッシュやカションと親しく、フランス語のできる栗本鋤雲の手腕に期待したのだ。
栗本や軍艦奉行木下謹吾の手配でケリエール号から士官や職工が派遣され、修理が進んだ十二月中旬(小栗は勘定奉行を十二月九日に免じられているから、明治になって「十二月中旬」と追懐している栗本の記憶に錯誤があるが、そのまま紹介しておく)のある日、晴れて風が激しい夕方、運上所(税関)の仕事を終えて官邸に戻ろうとした鋤雲は、町かどを曲がりかけたところ、後ろから駆けてきた二頭の馬上から大声で呼びかけられた。
「やあ、瀬(せ)兵衛(へえ)殿(鋤雲のこと)、上手(うま)くやったな、感服、感服」
見れば小栗上野介とその従者である。
「何をうまくやったというのです」
「翔鶴丸の修復だよ」
「あなたはもう見てきたのですか」
「見たとも、見たとも、しかも大見だ。今日は英国のオリエンタル銀行に用事があってやってきた。出先の者でも用がすむことだが、らちが明かないと困るので、午後から自分で来た。用件がすぐに済んだから貴兄に会いたくて役所に寄ったら貴兄が帰った後だった。そこで翔鶴丸に入り、船底まで入って全部調べたが、ケトル(蒸気機関)も腐食部分を全部取って補修してあり、とてもよい。それにしてもパイプがよく間に合ったな」(「匏庵遺稿」意訳)

 船底まで下りて機関修理の具合を確かめ現場を確認した勘定奉行の言葉には、これまでの幕府高官には見られないリアリスト・実務派のキビキビした息遣いが感じられる。アメリカでの造船所見学や、長い航海での経験が生かされているのだろう。

 この後、小栗は鋤雲の官邸に上がり、「どうだろう、この際フランスの技術援助を受けて本格的な製鉄所(造船所)を建設できないだろうか」、と切り出した。

本紙2467号(2019年3月27日付)掲載





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