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村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」44-日本初の株式会社―

株式会社・築地ホテル(13)―経営権譲渡―

 ホテルの誕生は幕末の動乱と無関係にはあり得ず、建築途中の慶應四年春には土地を無償で貸してくれた幕府が解散してしまった。その先が見えない中で資本金を募って始めた以上完成させて営業利益をあげなければならない立場の喜助が、苦肉の策を講じながら完成に持ち込もうとする姿が目の前に浮かぶ。

 こうして小栗上野介の指導を受けた株式会社の手法で出来上ったホテルが、5月17日に東京と名を変えたばかりの江戸町民に大評判となって、連日おおぜいの見物客が押しかけたことは前述の通りで、水洗トイレを初めとする最新の設備、ナマコ壁に代表される和洋折衷の斬新なデザインが、新しい時代が来ていることを人々に予感させた。

 さまざまな角度視点からの錦絵が百種類以上も描かれたというから、新しい東京名所の絵として相当売れたことを物語っている。木戸銭を払って見物した人々は、三代広重も描いた錦絵を買って東京土産としたことであろう。前号のように写真も何枚か現存する。

 しかし、出来上がったホテルの経営は順調には行かなかった。その第一の理由が鉄砲洲(現在の明石町)に設けた外国人居留地じたいが発展しなかったところにある。その理由を、大鹿武は次のように三つあげる。

一、幕府が江戸開市を約したときと、新政府になってからはまったく情勢が一変した。消費都市江戸の代表であった諸大名がいなくなって外国貿易商の最も大きな得意先が失われ、旗本その他の武士も失業したことで江戸の町がさびれてしまった。
二、貿易港は横浜で、すべての商品は横浜運上所で検査を受けなければ荷揚げは出来ないので、さらに江戸まで輸送するのがわずらわしくなった。

次号に続く)



本紙2437号(2018年5月27日付)掲載





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