現在位置: HOME > コラム > 村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」 > 記事



村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」38 -日本初の株式会社―

 株式会社・築地ホテル(7)―石蔵― 


じっさい、『ヤングジャパン』で著者ブラックはこのホテルを「民間会社が建てた」と表現して次のように書いている。


 これを1867年1月1日までに建築し、準備すると請負ったのは幕府だったが、実際には日本人の一民間会社が建てたものだ。主として、自分の商品を外国人に売って、利益が得られそうな業者たちの会社だった。この会社が幕府から土地を借りた。この土地は、居留地ではなく、隣接したところにあった。 (J・R・ブラック「ヤングジャパン2」ねずまさし訳・東洋文庫)

 そして、ホテル内外の壁、屋根瓦、漆喰等の左官仕事がたくさんあるのを、弥十郎から森田屋藤助に話して二人で引受けた。この金も喜助からすぐには受取れそうもないから、追々入る見込みの組合加入金から受け取る覚悟だった。

 じつは忠順は遣米使節の旅から帰国後、神田駿河台の屋敷内に個人住宅では日本最初といわれる西洋館を建て、イスとテーブルを置いて来客の応接に使っていた。江戸の町で「小栗様の石蔵」と呼ばれた石造(一部石造か不明)の洋館だった。

 文久三(1863)年、三井家は江戸の守護神としてすでにあった江戸向島の三囲(みめぐり)稲荷に、内社小神殿(大黒神、恵比須神の二柱)を造営することになり、それを二代目喜助が手がけた(「清水建設一八〇年史」)、という記録が残る。その三井に入って維新前後の混乱期を乗り切った大番頭三野村利左衛門は、若い頃小栗家で中間奉公していた縁で忠順とも深いつながりを持っているから、忠順と喜助の間に三野村が関わって小栗家の洋館建設を進めた可能性がある。

 それにしても小栗忠順はなぜ日本で馴染みの薄い石造建築にしたのだろう。

本紙2419号(2017年11月27日付)掲載





バックナンバー

購読のご案内

取材依頼・プレスリリース

注目のニュース
最新の産業ニュース
写真ニュース

最新の写真30件を表示する