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村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」29-日本初の株式会社―

  小布施の”船会社”(6)―鴻山の無念―


 さらに玄修は、大久保一翁の依頼を受け翌日付の手紙で、大久保一翁様も待ち兼ねているから、道中、馬でも駕籠でも一日も早く江戸へ出てきてほしい。天下に名医はいないのであなたの匙(さじ)加減について相談したい。あなたの薬が効かないと天下の命脈も絶えてしまう(「高井鴻山小伝」)

 とまで書いて要請をしている。しかし結局鴻山がこの時江戸へ出ることをしなかったのは、小栗の免職がよほどの衝撃であったことをうかがわせる。船会社の構想が幻に終わる以上、小栗公のいない江戸へ出ても、どれほどのことができようかといった無念と絶望が彼を襲ったことであろう。こうして船会社の構想は忠順の勘定奉行免職で、幻に終わってしまった。

 いま小布施町岩松院の境内に建つ高井鴻山の頌徳碑の碑文に彫られた小栗上野介の名が、鴻山との強い結びつきを物語っている。

  高井鴻山頌徳碑から小栗忠順に関する部分を抜き書きすると、
 …(略)…慶應三年幕府の財政大いに窮し、吏を遣わして信中(信州)の富豪の金を募る。鴻山曰く、吾等三百年の驩虞(かんぐ)の沢(たく)(よろこび楽しむことのできた恩)を受く、宜しく資産を挙げて以て危急を救うべしと。帰りて之を勘定奉行小栗上野介に報ず。上野介大いに喜び急使して之を召す。鴻山乃ち約して一万金を献ず。…(略)…   (高井鴻山頌徳碑)

 慶応三年(1867)、幕府から拠金を求める使者に「これまで徳川幕府は三百年間戦争をせずに国民が安楽に暮らせた。その恩義に報いるべく、資産を挙げてお国の危急に協力します……」と語って、江戸の小栗邸に招かれると一万両の拠出を約束している。

本紙2389号(2017年2月27日付)掲載





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