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村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」24-日本初の株式会社―

 小布施の”船会社” (1)―高井鴻山―


 兵庫商社のほかにないかと探すうち、長野県小布施町に見つかった。北信州小布施町は、葛飾北斎が晩年に滞在して描いた絵がたくさん残され、名産の栗とともに知られて、年間百万人の観光客が訪れる。その小布施に北斎を招き、画室の離れを建てて受け入れた人物が高井鴻山。町の豪農・豪商で、若い頃京都や江戸で勉強した学者であり、絵描きでもある。

 鴻山はたまたま町の「祭屋台天井絵」を描くことになり、これを北斎の助力を得て完成させようと考えた。依頼を受けた北斎は、江戸から小布施に八十歳すぎた身を四回も運び、鴻山は画室「碧漪(へきい)軒(けん)」を新築して迎えている。

 嘉永六(1853)年、ペリーの浦賀来航と開港要求を聞くと鴻山は江戸へ出て、日本の独立を危うくするとして鎖国攘夷を主張した。

 ペリーが去ると幕府は大船建造の禁を解き、台場を築かせ、諸国の豪農豪商に御用金を課すなど対策におおわらわとなった。この時鴻山は率先して協力、蔵を開いて貯蔵の籾を献納した。

 鎖国攘夷をつらぬくためには、国力と海防の充実が必要と考えていた鴻山は、江戸遊学中に交遊のあった佐久間象山が嘉永七(1854)年、門人吉田松陰のアメリカ密航未遂事件に連座して信州松代に蟄居を命じられるとしばしば訪ねあるいは書簡を交わすうち、しだいに鎖国攘夷論から開港論へと転換した。

 慶応元年(1865)五月、幕府は長州征伐の費用を補うため江戸・大阪・幕府領の豪農豪商および諸寺院等に献納金を命じた。慶應二年(1866)北信地域を巡って来た幕府役人が鴻山に献金を求めたところ、鴻山はまず七千両の献金を申し出、さらに翌慶應三年(1867)には三千両を追加し、計一万両の献金を申し出た。
・平成28年 9月27日号

本紙2377号(2016年9月27日付)掲載





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