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村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」12-咸臨丸神話が隠した遣米使節―

 今も続く「咸臨丸神話」

・航海中日本人は…教科書に「少しも恐れず、元気よく航海を続け」とあるのはまったく史実に反し、「日本人はほとんど船酔いで動けず、動けたのは二、三人(小野友五郎・ジョン万次郎・肥田濱五郎)。あとはみなアメリカ人の力で嵐の中を乗り切った」(咸臨丸水夫斉藤留蔵『亜行新書』)。ジョン万次郎は通訳として乗り組み、航海士の資格があるからブルック大尉の指示を的確に伝えた。


 問題はこの「元気よく…」の錯誤が戦後のいまも続いていること。
大正7年~昭和20年敗戦まで27年間、国定修身教科書で、勝海舟と咸臨丸の話を教えられた小学生が歴史学者になると、遣米使節の説明に使節が乗らなかった咸臨丸の絵を戦後の歴史教科書に入れてしまった。その流れは現在も中学高校の教科書や副読本で続いて、幕末の船は何でも咸臨丸と錯覚する「咸臨丸症候群」ともいうべき日本人を生み出し続けている。

 
 そして「日本人初の世界一周をした」遣米使節小栗忠順が「ワシントン海軍造船所の見学を契機に、建設を推進した横須賀製鉄所が幕末日本の産業革命の地となった」産業史にとって大事な史実を、覆い隠す結果をもたらしている。

 近年のテレビや映画で勝海舟が登場しても、太平洋横断の咸臨丸船中で活躍する場面がないことにお気づきだろうか。ブルック大尉の「咸臨丸日記」が1960年(昭和35)に邦訳刊行され、以来55年経過して船酔いで寝たきりの実態がかなり浸透したから、いくら勝海舟びいきの作家でも艦長の職責を果たさなかった男を、史実を曲げて活躍させるわけにゆかなくなった結果といえる。

 私のいまの目標は、歴史教科書や副読本の遣米使節の説明から咸臨丸の絵を外し、使節一行がワシントン海軍造船所を見学した堂々としたサムライの写真を掲載することにある。連載第4回(1月27日号)の写真を、こんどは新聞掲載のイラストでもう一度見ていただこう。当時は写真を印刷できなかったから、写真を元にした銅版画で「イラスト新聞」として伝えていた。

本紙2341号(2015年9月27日付)掲載





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