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村上泰賢氏の「わが国産業革命のはじまり」2-ワシントン海軍造船所―

   あらゆる鉄製品を造る造船所


 万延元年(1860年)一月、日米修好通商条約の批准を目的とした遣米使節一行が品川沖から米国軍艦「ポウハタン号」で出航した。遣米使節三使は正使新見豊前守正興・副使村垣淡路守範正・目付小栗豊後守忠順で、従者を含め総勢77人は、太平洋を進んでハワイ~サンフランシスコ~パナマ~から、約3ヶ月の旅でワシントンに到着した。

 ブキャナン大統領への条約批准書贈呈がすむと、四月四日、小栗忠順ら遣米使節一行はワシントン海軍造船所を訪れた。まず案内されたのは10棟あまりの大きな工場で、中には反射炉が据えられ、すでに鉄を溶かした湯が盛んに沸いている。一行が行くとさっそく作業員が湯口を切り、溶かした鉄の湯を火の滝のように土中に注いだ。野戦用の大砲を鋳込んでいるとのこと。そのほか建造中の汽船「ペンサコラ」号の蒸気機関、水や湯を貯めるタンク、それを運ぶパイプ、石炭を焚くボイラー、鉄のハンドル、ボルト、ナット、歯車から部屋のドアノブ…、とにかく造船に必要なあらゆる鉄製部品を造っていた。

 同じ所内の大砲部では、太い鉄棒にドリルの刃を当て、くりぬいて筒状にし、ライフリング(旋条)を彫り、外側を磨いて仕上げている。ライフルの銃身も部品も造り、ネジで組み立てる。雷管の製造と充填作業、ミニエー銃の弾丸製造、真鍮の榴弾砲の鋳造と仕上げをしていて、砲弾が一度に百発も造られていた。

 工場内に大きなスチームハンマーがあり、高さ六尺ばかり、数千貫の重さのハンマーをハンドル一本の操作でスッと持ち上げ、下の盤上の真っ赤に焼かれた鉄の棹に大きな刃を当てハンマーを落とすと、一打ちで切断した。「さながら豆腐を切る如し」と、一行の森田清行はその時の驚きを日記に書いている。日本では鍛冶屋が鎚を振るって何日もかけてようやく切るものを、目の前で一打ちに切断したのだ。アメリカの近代化された工場の機能と威力を見せつけられた場面であった。             


本紙2311号(2014年11月27日付)掲載





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