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阪村氏のねじと人生

堺と阪村家

 大阪城ルーツは、本願寺八世の蓮如が創建した大阪(石山)御坊に求められるが、現在につながる大阪の市街地は、豊臣秀吉の大阪築城にともなう城下町建設に始まる。

 天正11年(1583)9月1日に開始されたが、城下町の建設はそれに先行して始められた。秀吉の当初の構想は、大阪城から上町台地を南に向って家を建て列ね、四天王寺、住吉大社の門前町から国際貿易港の堺と結ぶという壮大なものであったが、文禄5年(1596)7月12日に畿内一帯を大地震が襲い、堺の港の役割が果たせなくなり、計画変更を余儀なくされた。

 こうして、上町台地西側の低湿地が開発され、港湾機能をもった新たな町がつくられた。それが船場で、島之内、堀江と次々に開発され、上町台地の西側に色々な船が出入りできる流通機能をもった「水の都」大阪が誕生した。

 堺は毎年豪雨による大きな被害を出していた。
 「こら、何とかせなあかんで・・・」

 5年に一度は大水害に見舞われるが、河内平野は低湿の土地である。そこを、大和川は柏原から幾筋にも分かれて流れ込んでくるから、すぐに溢れる。柏原から西へ直進して、海に流す水路を掘るのが一番よいと、1656年から1703年の40年間をかけて、29ヵ村の反対を説得し続け、着工にこぎつけた。

 江戸では大石良雄、四十七士が吉良邸へ討ち入りした騒ぎがあり、その翌年にこの水路建設は着工された訳である。即ち、宝永元年10月、働いた人夫は述べ245万人に上がり、費用は7万両といっている.

「よっしゃ、やったるか」大阪東町奉行の代官万年長十郎の奔走により、幕府が踏み切った。

 この時、淡路島の津名郡より阪村家がこの計画に参加し、八ヶ月間風呂にも入らず働き続けた。白いフンドシが紺色になっても取り替えずそのまま働いたとの事で「紺フンドシ裸の芳兵衛」と“仮名”をもらったほどである。
浅香山を割り、堺の北を海に達した。働きぶりを讃えた碑は、田守神社にありまた、この大計画を立てた中甚兵衛は柏原市上市2丁目の大和川付け替え地点に、その記念碑がある。

 この工事により、新しい田畑が生まれた。中河内では綿がつくられ、河内木綿と呼ばれた。

 神殿開拓でいちばん大きいのが鴻池新田である。菜種が多く栽培され、菜種油がとれた。灯油の需要が増え、今でいう石油エネルギー産業が起こった。

 阪村家はその功により、新大和川が運び出す土砂で出来た松屋新田をもらった。潮が引くと境界のない土地が次々と生まれてくる。さしずめ大地主である。

 しかし、そんな夢は徳川幕府の崩壊とともに消え去り、土砂が運んで出来た土地は、明治新政府に没収されてしまった。祖父は大審院(高等裁判所)にまで訴えたが、大久保利通の廃藩置県制度により、世の流れはもっと大きな改革が行われていた。祖父は「人垢身につかず。踊って入ってくる金は、踊って出てゆく」と言って、またコツコツと農業に精を出していた。“本業に徹し、ぼろ儲けがあっても手を出さない”という教訓は以後の祖父から聞かされ―幼い心に焼きついたのだと思っている。

本紙2003年10月17日付(1911号)掲載。


読者によるコメント&追記情報
ぷぅにゃん | 2011/12/10 05:39 AM

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