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阪村氏のねじと人生

硝薬と銃床

 日露戦争での日本海海戦は、東郷平八郎のT字型戦法が有名であるが、ロシア艦隊を撃滅したのはシモセ・パウダーといわれる下瀬火薬である。
 明治4年(1871)、英国のアームストロング会社で実習し「優秀なる兵器なくして独立なし」との主観から下瀬は、わが日本は弱小国であり、この帝国主義の世界に生き残る道は兵器の発明である―と、改良でなく世界炸薬の観点を一変させる“綿火薬とは全く異なるピクリン酸を用いたシモセ・パウダー”を発明した。兵器と火薬―時代は移ってもこの取り合わせは変わることがないが、それは後の事。

 さて話は堺に戻るが、堺は火薬の原料を輸入して売るだけで、火薬は射手が硝石(中国の塩、又は雪といわれた)および硫黄、木炭を調合し最適の硝薬をその日・その日に作らなければならない。

 硝石、硫黄、木炭と、いずれも吸湿性の強い物質のため、季節・天候により調合の割合を変えなければならない。熟練した射手は、風のにおいを嗅いだだけで調合の割合を発明するといわれている。

 銃身の微妙なひずみを知り、弾丸(鉛)の直径と口径との比率も知らねばならない。銃の口径と銃身の長さ、弾丸の重量、射距離、風向き、更には空気中の湿度から射手の経験により硝薬量を割り出す。

 弾薬を銃膣に装填したのち、杖で突き、固めるのが下手であれば2~3mのところに弾がポトリと落ちる。フォーマー作業者達が、線材を握っただけで硬さが分かり、機械は音ですべてが分かる―といわれるが、技能と勘の大切さは今も昔も変わらない。

 しかし、技能と勘は技術によって機械化されてゆく。火薬も、先に紙に包んで置く方法から、缶詰にする新型薬莢(やっきょう)の開発により、三十秒かかっていた弾込めが一秒間に十発以上発射できる自動小銃へと機械化の進歩を招来した。

 鉄砲一丁が米十五石といわれる高価な時代に、六万丁の鉄砲と精鋭十八万人による秀吉軍が釜山に上陸し(1592・文禄の役)、堺でつくった新兵器銃砲の威力により2日で釜山城を落とし、ソウルまで20日間で進軍し、今の北朝鮮の首都平壌や咸鏡道一帯まで進出する破竹の勢いであった。

 この新兵器の威力をみた朝鮮国王は、秀吉軍の中で鉄砲を作れる技能集団である“根来”軍団三千名の武将「沙也可」に、鉄砲とネジの製造技術と、硝薬調合並びに射撃まで教えてくれたら「この国の一郡を与える」という約束で、根来軍団を朝鮮に寝返らせることに成功した。これが秀吉軍敗退の要因である。

 朝鮮国王はこの約束を守り、今でもその子孫が大邱市の友鹿洞(ウロクトン)に資料館をつくり、暮らしている。堺からはその当時の火縄銃が貸し出され「鹿洞書院」に飾られている。
 彼らにとって一番苦しかった時代は、大日本帝国に併合された植民地時代で、祖国に反逆した子孫達だとさげすまされたとの事である。

 この鉄砲を朝鮮で作る上で一番苦労したのは、朝鮮には日本のように豊かな木材がないという事である。またしても我々は“鉄砲はネジ”と思う訳だが、実は大切なのは銃床であり、故に銃床を成す白樺の木材なのである。木が手に入れば、銃床の型取り・銃身のはまる部分の切り取り、切り取った部分を丸タタキノミで仕上げ、一番厄介で且つ時間の要するカルカの穴あけである。

 銃身をおさめて尾栓(プラグ)の穴あけ、目釘で止め、引き金にあたるカラクリを設けて、色付けで出来上がるのだが約二ヶ月はかかる。

 堺の鉄砲は、色々な人、色々な工夫により生まれそして育った。もし堺の鉄砲がなければ、日本史も世界史も大きく変わっていただろう。この堺の鉄砲も、大阪夏の陣の大火でことごとく焼き払われ、堺は徳川幕府の成立と共に、鉄砲からタバコを刻む「堺包丁」の時代へと入っていく。

本紙2003年9月17日付(1908号)掲載


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