阪村氏のねじと人生
中野鉄工所
阪村芳一が線材製品用機械へ身を投じる端緒となったともいえるのが表題の「中野鉄工所」である。
戦時下、工業学校を卒業した阪村が入社した先が前にも記した大阪軽合金(株)であるが、その大阪軽合金で発注していた伸線機のメーカーは中野鉄工所であった。
その関係から独立した阪村は、製作工場がないため、受注した機械は中野鉄工所および、その協力工場に依頼して作ってもらっていた。
「伸線」の作業は、1830年頃、車屋利兵衛、針金屋安兵衛によりカンザシの線引きから始まり、樫の木のドラムに巻付けてやっていた。鉄線の伸線機は、メタルは樫の木だが、鋳物のドラムにチェンで作ったカケダシに線の端を喰えさせ、大きな水車で伸線する。この作業は昭和に入っても枚岡でやっていた。
生駒山系の「額田」には35台の水車があり、伸線工業が盛んになった。
名古屋の鈴豊精鋼(株)の創業者である鈴木治郎氏をはじめ、数多くの伸線及び引き抜きシャフト屋を生み出したのが枚岡地区である。
中野鉄工所のオヤジは、太物から細物までの伸線機を作っていた。
一粍以下の銅線になるとダイスはダイヤモンドになる。その細くなった丸線をフープ状に圧延を行うロールは、ルビーで作っていた。京都の金糸、銀糸の織物は、この磨かれたダイヤ、ルビーから伸線・圧延の転写をしているため、ピカピカに光る。
超硬合金がドイツで出来てからでも、天然セラミックスのダイヤ、ルビーの転写は「美」に対しては絶対的と言われるほど優れていた。
「鉄工所とデンボは大きくなったら潰れる」中野社長の口癖であった。
機械の注文というものは、景気がよくなれば一ぺんに注文が入るため、断りきれずに受注し工場を拡張するが、不況になると一ぺんに注文がなくなり、修理する仕事もなくなるので潰れる。
「鉄工所は絶対大きくしたらアカン」と戒める。
そのためオヤジさんは仕事のない時は、使い捨ての酸素ボンベをスクラップ値で買ってきては、伸線機のドラムを作っていた。酸素ボンベは、マンガン鋼で新品は値も張るが、スクラップで買ってくるため安い。伸線ドラムは消耗品のため、どこよりも安ければ必ず安定した注文が来る―と、仕事のない旋盤工に量産させ、仕上がったドラムにグリスを塗って在庫していた。
安い、即納ができる、客が喜ぶ。これは理に叶っている。
その理を阪村は今でも念頭においている。新型フォーマーを開発しては、それに使う消耗品の金型を作り、お客様のお役に立っている。阪村グループは「治にいて乱を忘れず」と、中野社長の教えを守り、グループで助け合っている。
それにしてもいろいろな機械を作ったが、共通して言えることは、針金が原料の機械である。ニーズは類化拡散し、とめどもないということになる。
即ち、時代の要請によりアメリカ占領軍が進駐すると、彼等の兵舎の蚊、ハエを防ぐ金網の機械を作り、焼跡の復興が始まると、住宅を建てる釘の機械。朝鮮戦争には鉄条網、そしてヘアーピン、針ピンと、続けざまに作った。
いちばん苦労したのは、今でも同じであるが、コイル材の「切断」である。
釘は、先尖圧縮切断を行いトンボの付いた端面を、バネを圧縮したパンチで叩いて頭を作る(現在はクランク)「バタ」という機械をつくっていた。後年、歪スピードの速いエネルギーによる圧造は「特殊鍛造に活用できる」と最近発見し、現在チタン合金を850度に加熱し、瞬時に圧造するコンタクトタイム0・1秒で完成するシステムが開発されている。
次のヘアーピンは、切断した鋭利な端面で頭の肌を破るため、ファインカッティングの端面はとても危険である。出来たピンをエナメル槽に浸し、取り出したエナメルが切断した先端に丸く固着する「エナメル焼付塗装法」を開発し、解決した。
困ったのは針ピンである。ワイシャツなどの布に刺して用いるため、シャーカットされた面粗度を、ピカピカの針状に尖らせて磨くのである。色々と10個の砥石の組み合わせを先端形状の砲弾型板カムにガイドさせる方法をヘッダーに組み込み、毎分300本の高速生産に成功し、この針ピンの一件も解決した。
この技術がタッピングフォーマーの袋ナットのラップ仕上げに用いられている。最終工程等に設けた超高速回転パンチにて破断傷を取り除き、ピカピカに研削仕上げするサカムラの特許システムであり、孔子のいう「温故知新」である。
本紙2004年3月17日付(1926号)掲載。
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