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阪村氏のねじと人生

無条件降伏

 大阪軽合金の社名は「新日本産業株式会社」と変えられた。吉田社長からは、軍需会社としての責任は自分一人でとるから、諸君は民需生産に仕事を見つけて食ってゆくように、との訓辞があった。

 阪村は「アメリカ軍が上陸してくるまでに軍の倉庫にある物資は自由に持ち出してよろしい」との電話をもらい、トラック一杯の電気銅を積み出した。

 8月30日にマッカーサーが到着し、横浜のニューグランド・ホテルに総司令部が置かれた。

 9月2日、横浜沖の米戦艦「ミズリー号」上で、降伏文書の調印式が行われた。

 総司令部からは、占領政策遂行上必要指令を「至上命令」とし、絶対服従を要求された。その第1号指令に「英語を公用語とする」というのがあった。かつて阪村が小学1年生のころ、担任の先生は朝鮮の美しい女性であったが、朝鮮が日本の植民地になり、それ故に「朝鮮語が自由に話せないのが一番辛い」と言っていたのを思い出した。

 「便所の中に隠れて、その中で分からない様に朝鮮語で話すのですよ。あなた達は“朝鮮人”とパカにするけど、自分の国が他国に支配されるということは、名前まで変えさせられ、本当に悲しいことですよ」と涙を流していたのを想い出し、いよいよ日本もそうなったのか―と、あらためて“無条件降伏”という敗戦を噛み締めた。

 8月18日、警察署長の権限を使って、占領軍相手の性的慰安施設が出来た。

 ―聖断を拝し、茲に占領軍の進駐に見るに至った。一億の純血を護り以って国体護持の大精神に則り、当局の命令により慰安施設を完備する―
というもので、政府より1億円(現在の500億円)の資金が出ている。

 しかし、娼妓約1万3千人に対し12万人の米軍である。あまりにも娼妓の数が少ないため、慰安婦募集の看板を出した。

「新日本女性に告ぐ!戦後処理の緊急施設として新日本女性の率先協力を求む=年齢18歳以上35歳まで、宿舎、衣服、食料など全部支給」と各新聞の広告欄にも掲載された。

 空襲の心配や、爆弾の恐怖からやっと解放されたといっても、住む家も着る服も、食べる物もない彼女達にとって、この呼びかけは魅力的であった。戦勝国の占領軍にとって敗戦国の女性を犯すぐらいは罪とも思わず、強姦、輪姦、殺戮は古今問わず世の成行き。当時一ヶ月で1838件―と警察の記録にあるが、それを防ぐための慰安所である。

 ジープと共に日本にやってきた米軍将兵たちにとって、なにより慰安はセックスの満足であった。

「彼らは砂漠のオアシスを見たかのごとく嬉々として、彼女らに肉迫する。要求に応じなければ殴るなどの乱暴を働く」
と情報課の報告にあるが、彼女たちは1日に10人以上のアメリカ兵を処理している。

 阪村家に間借りしていた女性も、アメリカ兵のパンパンになっていた(サイパン島の言葉で、手でパンパンと叩くとチャムロ族の女がやってきて自由に出来たことからの由来としている)。

 敗戦前の意気込みではアメリカを占領し「コカコーラ」の社名を「オイコーラ」にかえてやるんだ!と闘ってきたが、無条件降伏とはこういう事か・・・と思いながら、住友銀行本店に進駐してきたアメリカ第8軍司令部へ出向き賠償指定解除の申請書をつくり、毎日その説明に通った。陸軍大尉の軍監督官が用いていた乗用車を、若い新入社員が使えるのも、敗戦という時の流れである。

 「こんな女に誰がした」悲しい唄声が、木枯らしと共に聞こえてくる昭和20年(1945)の年末であった。
 
本紙2004年1月27日付(1921号)掲載。


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