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阪村氏のねじと人生

堺空襲と終戦

 日本本土は、連日にわたりB―29の空襲にさらされていた。

 第21爆撃部隊司令官カーティス・ルメイ准将が発案した“焼夷弾爆撃”である。この焼夷弾「M69」は、長さ51cm、直径8cm、長ナット状の正六角形の筒19本を束ねて二段に組んだもので、その筒にゼリー状ガソリン・ナパームが詰められている。

 投下後、焼夷弾の束は自動的に解け、38本の六角ナット状の筒は広い範囲にばらまかれ、アッという間に木造家屋は燃え上がる。遠くから見ていると、花火のようでとても美しい。3月10日の東京空襲では、325機のB―29が、一機あたり約6トン、合計2千トンが投下されている。

 36万発の焼夷弾爆が浅草、深川の下町に落とされた。その様子は凄まじいもので、2時間あまりの空襲で25万戸の家が焼失し、死者8万5千人を出している。

 「日本よい国、花の国。6月、7月、灰の国」と書かれた宣伝ビラが、B―29より散布された。その7月10日、サイパン基地を飛び立ったB―29・116機は堺上空に到達、“敵機襲来”のサイレンに夜空を見上げると、計719トンの焼夷弾が、夕立のような「ザー」という音をたてて落ちてくる。

 不思議なことに、恐ろしさを感じなくなっていた。重なった所は、一平米に一個の割合で落ちているが、幸いに阪村家は焼かれずに終わった。

 堺中心部の炎上の煙は、上空5200メートルに達した―とアメリカ軍作戦日誌には記されている。

 堺の市民は、空襲の猛火にむせびながら、右に左に危地からの脱出をはかり、土居川、内川や貯水池に飛び込んで、真っ黒に焼けただれ悲惨な最期を遂げた。

 その地獄絵図は、親は子を求め、子は親を呼び、悲泣号泣、阿鼻叫喚の焦熱地獄そのものであった。

 阪村は、全身に黄リンの飛沫(消しても消えない、服を脱ぎ捨てるしか方法がない)を浴びて焼死者の中を走り回り、歴史的な町並みが一夜にして灰燼になってゆくのを、どうすることも出来ずに見ていた。この空襲で、一万八四四戸が焼失し二千八三二人が焼死して、中世以来の「堺」は終わった。

 そして8月6日、午前8時15分、京都から広島に投下目標を変更した原子爆弾が広島市の中心部上空で炸裂した。

 中心温度250万度、6千度の熱線が爆心地表面を襲い、音速より速い秒速5百メートルの爆風が校庭にいた女生徒達を地面に叩きつけている。

 周知のように、アルバート・アインシュタインの理論物理学である「核分裂で生じるエネルギー」は、盃一杯の水でニューヨークを吹き飛ばす―というもので、この理論に基づき原子爆弾の開発を行っていた理研の仁科芳雄博士たち研究グループはその威力をよく知っていた。

 素粒子の相互作用を媒介する中間子(ボルトとナットの間にあるワッシャーと同じ)を発表した理論物理学の湯川秀樹博士は、1943年に科学分野での名誉ある賞を受賞し、1949年ノーベル物理学賞をも受賞している。

 原子爆弾は「机上の空論」と思い、説明を理解してもそれを信じるのは、また別のことであった。軍部も決定的な新兵器を見せつけられて承諾し、ここに大日本帝国は終戦を決意した。

 終戦はすべてを開放した。初恋の経理部女子社員と初めてダンスをした時は、百万ボルトの電流が体内を走った。闇市で、食う物をあさり、進駐軍の捨てたタバコを拾って吸っていてもすべて楽しかった。

 彼女からは「やわ肌の熱き血潮にふれもみず、ネジを説く君、寂しからずや」と、堺が生んだ情熱の歌人・与謝野晶子の歌を示され、一つ年上の積極的な「恋」に振り回される慌ただしい戦後の青春が始まった。
 
本紙2004年1月17日付(1920号)掲載。


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