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阪村氏のねじと人生

学校の思い出(堺工業学校)

 久保田権四郎は明治33年(1900)、33歳で鋳鉄管の難点を克服する新鋳造法「立込丸吹法」を発明した。当時、東京商業会議所会頭だった渋沢栄一が―「経験の乏しい水道管を製造し、外国製品と競争するのは無謀だ」と反対しているのを、一般に使われるようにし、浄水を連続供給する有圧水道を全国に敷設している。その偉大な創業社長より表彰状を頂いた。(前号参照)

 その当時久保田社長は、75歳になっておられたが、この朝の訓辞は今でも鮮明によみがえってくる。

 この表彰状に書いてある字は私には分からない。読めないのである。私は小学校も出ていないから、字が読めない。だから、すべて人は自分より偉い人と思って尊敬し、話もよく聞く。頭が低いということは水が高いところから低いところへ流れるように、お金も、情報も、勝手に流れ込んでくる。小学校にも行けなかったが「クボタ」をつくり、お国に奉仕している。
 
 君達は中学校を卒業するのだから「クボタ」より大きい会社をつくってあたりまえだ。戦局が一段とキビシクなっているが、人生には「運」が3回めぐってくる。君達がじっとしていても、世の中は動いているものだ。自分の魂を打ち込んだ仕事に全精力を集中せよ―と訓辞を頂いた。

 朝礼では、南方前線の兵隊さんが“一発の弾(たま)でも早く送ってくれと叫びながらアッツ、タラワ、マキンと玉砕していっている”との訓辞である。

 なれど、17歳の若い血が燃えている少年には、女子挺身隊として一緒に働いている美しい女学生しか頭になかった。

 勅令36号により中学校が設立され、1年短縮した4年で堺工業学校を卒業する事となった。

 学校時代の思い出としては、三宝伸鋼の学徒動員にて、銅と亜鉛を溶かして黄銅板を圧延ロールで作り、それを打ち抜いたディスクスラグから、高射砲の薬莢を冷間鍛造で成形する仕事に従事したことである。

 陸軍は銅60パーセント、亜鉛40パーセントであり、海軍は銅70パーセント、亜鉛30パーセントであったが、海軍の高射砲は1万メートルの高さを飛ぶアメリカ爆撃機B―29をよく打ち落としていた。

 入学した時の学校名は堺職工学校で、途中で工業学校に変わったが、学徒動員のおかげで堺化学をはじめ各社の職工として働き、経験の機を得た訳である。

 思えば、塑性加工の深絞り成形を60年前の15歳で何も知らずに毎日やっていたのである。

 学校における軍事教練は実弾を与えられ、配属将校中野中尉より、実践さながらに鍛えられた。それはグラマン戦闘機の機関銃弾が目の前に降りそそぐ土煙の中で、傘型散兵線に展開して行われ、アメリカ兵2人を殺して死ねば勝つ・・・と猛訓練であった。

 他方、武器の大切さは命にかかわることだから、品質管理に対しても充分注意した。しかし、一番不良が多く出るのは、数の多いねじであった。一本ずつ「ロクロ」と、ヤットコ鋏でねじを切るのである。皿ビスの頭の角度も一本ずつ削り出されたビスに板ゲージを当てて隙間がないか、目視検査をするのである。それを15、6歳の学徒につくらせるのだから不良が出るのは当たりまえである。(※ビス=フランス語のねじ。語源はワインを造るブドウの蔦。前に登場した日本のねじ文化を開いた江戸時代末期の小栗上野介がフランスの援助で横須賀造船所をつくり、ねじの生産を始めたので関東地方でそう呼ばれていた)

 話を戻すが、その15、6歳の教育法だが、今でも学校教育で役立っているのは、見た物全体を思い出して描写できる能力を育むことである。ポラロイドカメラと同じ様に、瞬時に見たものを脳にインプットし“広重”の浮世絵のように画き出す能力である。

 たとえば、高いところから全体を見た情景のため現在のカメラでは映し出せない360度の鳥瞰図が描き出せる。これは工業学校の製図の担当先生から教えて頂いた秘法である。

 山本英道先生の「工の字の教え」(既載)、久保田権四郎社長の「創意工夫」、三宝伸鋼での「塑性加工」そして、このポラロイドカメラ技法を身につけて堺工業学校を卒業した。

本紙2003年12月7日付(1916号)掲載。


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