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阪村氏のねじと人生

堺工業学校 2

 米、英、オランダの三カ国に対し宣戦布告された。12月8日に校庭に集まり、放送を聞きながらシーンとなった。いよいよ人生も終わりだな・・・米国の爆撃と英国東洋艦隊の艦砲射撃で日本は火の海となる・・・今年のお正月は迎えられないな・・・と、大本営発表の「本8日未明、帝国陸・海軍は、西太平洋で米英軍と戦闘状態に入り」という放送を聞いていた。

 ところがパールハーバーの奇襲攻撃で、アメリカ太平洋艦隊は全滅し、南方では絶対沈まないと言われていた英国東洋艦隊の新鋭戦艦「プリンスウエルズ」と「レパレス」を日本航空隊がアッという間に撃沈してしまったのである。

 3学期に入ると、英国が百年かけて作った東亜戦略の牙城といわれたシンガポールを、山下兵団は「お正月のお年玉に・・・」と、あっさり攻略、英軍陣営を陥落させてくれた。地図は「シンガポール」が「昭和島」という名前に変わった。時を一にして、あたりがグラグラ揺れたので、理研が研究していた原子爆弾の実験が成功した―と喜んでいたが、それは和歌山沖地震であった。

 授業がイットイズ・ア・ペンの英語から、デル、デス、デム、デンのドイツ語に変わった慌しい3学期を終わって、2学年への進学と同時に学徒動員令が出され、学校から軍需工場の生産活動に従事することとなった。

 我々は学校の近くにある久保田鉄工所(現クボタ)の寮に泊り込んで、朝6時から夜10時まで生産活動に没頭した。久保田鉄工所は、久保田権四郎が設立した。権四郎は小学校も出ていない貧しい家の子であった。

 明治13年(1880)、固い鉄も鍛冶屋が真っ赤に焼くと“飴の如く軟らかく変形する”機械設備も測定工具もいらない。「ハンマー一つあれば出来る商売はこれだ」即、鍛冶屋の見習い工となった。

 古鉄を拾って来ては細長く叩いて「火箸」を作った。「火箸作り」には仕上げを行う機械設備も測定する治工具も要らない。規格もなければ寸法もない。2本揃っておればよい。

 無一文から小金を貯め、明治23年(1890)、19歳で鋳物会社を設立し、水道用鋳物鉄管の製造に着手している。

 阪村(芳一少年)が生まれた年に60歳になった久保田はドイツを訪れ、ランツ社の技術をベースに高級鋳物鉄管の開発に成功している。現実に即した創意工夫や、明日から即生産が向上する発明を奨励した。

 また昭和6年(1931)、小型自動車「ダットソン」を販売したが、エンジンだけに絞って方々の会社に買って頂くという“完成車は作らない経営哲学”を実践した。その後、日産コンツェルンをつくった鮎川義介に自動車事業を譲渡し、日産自動車の「ダットサン」はこういう経緯で生まれている。

 前にも記した自転車のシマノがその当初、即ち昭和13年(1938)に、完成車はやらない―と、自転車パーツに絞ってその道で世界一になっているが、シマノはクボタ堺工場に隣接しており、考え方がよく似ている。

 当の久保田は「回転式鋳造装置の開発」など、独創的な鋳造法も開発しているが、阪村芳一もこの久保田の創意工夫の概念に応えた事例をここで生んでいる。

 当時、久保田いわく「コスト低減とは、今やっている仕事を半分ですれば、半値になる。簡単なことだ」と教えられ、自分の使っていた研削盤(シェーバー)の生産性を2倍に上げる開発を行ったのである。

 研削盤は、往復運動を行って切削加工を行うため、帰りは無負荷となる。そこでバイトに工夫を凝らし、往復とも切削加工を行う方法の発明である。

 当時のねじ転造盤の板ダイスは、カマボコ板状の鋼材をリード角だけ傾けて、研削盤のバイスで固定し、ねじピッチの送りをかけ、60度刃先の姿バイトで切削してゆくため、この方法を用いると2倍の速さで出来る。

 ちょっとしたアイデアでコスト削減というものは出来るものである。

 この発明で、創業者久保田権四郎社長から直接、表彰を受けたのである。

 緊迫の開戦時下、その時局、時流を見極めつつ芳一は夢を膨らませていった。
 ゆく春や霞山桃桜
  夢まぼろしの白雲か

 阪村芳一17歳の春であった。

本紙2003年11月27日付(1915号)掲載。


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